中村憲吉旧居(尾道)--「岩かげの光る潮より風は吹き 幽(かす)かに聞けば新妻のこゑ」

 尾道の中村憲吉旧居。アララギの代表的歌人

転地療養を決心した中村憲吉は、採光、通風、眺望のよい千光寺公園中腹の「旧居」に定める。確かに眼下に尾道の市街が見渡せるが、石段は380段以上。

前うしろたすけられつつ石段に夕月ふみて山のぼり終ふ

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母屋は取り壊されて今は無い。写真は残った離れ。

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岩かげの光る潮より風は吹き 幽(かす)かに聞けば新妻のこゑ

秋浅き木の下道を少女(おとめ)らはおほむねかろく靴ふみ来るも

おく山の馬棚戸(ませど)にくれば霧ふかしいまだ咲きたる合歓(ねむ)の淡紅はな

病む我に妻が屠蘇酒をもて来ればたまゆら嬉し新年にして

病む室の間遠枯木の桜さえ 枝つやづきれ春はせまりむ

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1889年(明治22年)広島県三次市生まれ。1906年第七高等学校。1907年、短歌を始める。1909年、上京し伊藤左千夫に会い「アララギ」に入る。1901年東京帝大に入学。1913年、島木赤彦との合著『馬鈴薯の花』を刊行。1916年、帰郷し家業に従事。『林泉集』。1921年、大阪毎日新聞経済部記者。1924年、『しがらみ』。1925年、『松の芽』。1926年、退社し家業に従事。1930年、『中村憲吉全集・土屋文明全集』。茂吉、平福百穂と山陽の旅。1931年、『軽蕾集』。1934年、尾道で死去。46歳。遺歌集『軽蕾蕾集以後』。

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・研究室で事務処理

・山本さん:新機材

・ラウンジで歓談:今泉先生、彩藤先生、久保田先生、、。

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 「名言との対話(平成命日編」9月25、浪越徳治郎「指圧のこころ母ごころ、押せば生命の泉わく」

浪越 徳治郎(なみこし とくじろう、1905年11月3日 - 2000年9月25日)は指圧療法創始者。日本指圧協会元会長。享年94。

1905年生まれの浪越は1945年(昭和20年)の敗戦時は15歳。その時、「日本の復興は、まず国民の健康から」と、秋田から東京へ向かう。室蘭で開業、札幌を経て、28歳で東京進出。35歳、日本指圧学院を創設。41歳、日本指圧協会会長。52歳、日本指圧専門学校校長。63歳からテレビ朝日桂小金治アフタヌーンショー」の指圧教室に出演。

1955年の国会で「療術規則に関する件」が審議された。ここで初めて指圧が公に認められた。現在では、苦労の末に、手技療法。アンマ、マッサージ、カイロ、指圧の四種が法律で認められている。

2001年に書いた「人間の記録」シリーズの『浪越徳治郎 おやゆび一代』では、満50年で施術(おさえた)は、20万人を超えているとしている。この本の中に登場する著名人には驚いた。指圧は人脈形成の武器でもあったわけだ。文壇では、吉川英治菊池寛石原純長谷川如是閑山本有三。政治分野では、鈴木喜三郎、中野正剛吉田茂頭山満芦田均中曽根康弘、キーナン検事。芸術家では、三浦環、六代目・尾上菊五郎早川雪洲。スポーツ界では、男女ノ川琴ヶ浜柴田国明古橋広之進長島茂雄、カーシャス・クレイ。、、、。圧巻は、1956年に29歳のマリリン・モンローが来日時に胃けいれんで苦しんだときの施術だ。「世紀の肉体」「ガウンの下には何もつけていない」「白磁の肌」「金色」、、、。7回の機会で、指の法悦を味わったそうだ。

日本テレビアフタヌーン・ショー」での指圧教室は3年続いた。また『自分でできる三分間指圧』(日本実業出版社)がベストセラーになり、浪越徳治郎の名前と顔と、そして指圧は有名になった。

「指圧即診断、診断即治療」。「指には口もあれば目もある。感覚と感覚で語り合うのが指圧の極意である」。生命と生命との触れ合う治療法、生命療法と浪越は指圧を定義している。

「おすのが八・さするのが二」という指圧の基本は、子どもの頃に難病の母をなおしたときに発見している。「指圧のこころ母ごころ、押せば生命の泉わく」はこの時の経験から生まれた名言だ。浪越徳治郎は 「日本の復興は、まず国民の健康から」と志して、指圧という天職を発明した起業家である。「 一指万物を生ず!」との言葉どおり、国民の健康をつくった。私たちはその事跡の恩恵に今もあずかっている。 

浪越徳治郎―おやゆび一代 (人間の記録)

浪越徳治郎―おやゆび一代 (人間の記録)