本日の「日刊ゲンダイ」の「ブックレビュー」に「100年人生の生き方死に方」の書評。

愛読紙「日刊ゲンダイ」の本日の「ブックレビュー」に拙著『100年人生の生き方死に方』の書評を発見。渋沢栄一西本幸雄日野原重明を取り上げている。

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100歳近くまで生きた偉人たちには<学び続ける><夢がある><謙虚>など7つの共通項があるという。

 たとえば江戸時代末期に生まれ91歳で亡くなった実業家の渋沢栄一は、元官僚。どんな境遇におかれても進んで学んだ氏は、やがて具体的提案力と優れた実行力を備える人物として知られるようになった。

 そんな氏は「有望な仕事はあるが資金がない」という人に対し「人の信用こそ最大の財産である」と言い、何事かをなさんと考えるなら信用の蓄積が大事であることを説いた。

 ほかにも91歳で亡くなった元プロ野球監督の西本幸雄の「いわしも大群となると力が出る」、105歳で亡くなった医師の日野原重明の「しかし、人間は生き方を変えることができる」など、葛飾北斎(88歳)から平櫛田中(107歳)まで、100歳を生き切った先達81人の箴言を紹介。

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大学:ラウンジ

・下井先生:入試

・中村その子先生:カリキュラム

・渡辺さん(学長室):戦略会議「国際」。統合、共通、共有。

・高野課長:多摩祭

大学:研究室

・講演の準備

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「名言との対話」11月5日。村山雅美「無理はしても、無謀はしない」

村山 雅美(むらやま まさよし、1918年3月28日 - 2006年11月5日)は、南極観測隊隊長で国立極地研究所名誉教授

国際地球観測年1955年に、日本も南極観測参加の意思を表明したが、敗戦直後ということから他国の反発があり、「資格なし」とされた。白瀬隊の実績を挙げて「資格あり」と反論しなんとか認められた。

村山雅美は戦後は商社に勤務していたが、1953年のヒマラヤ・マナスル第一次遠征隊に参加し、1956年には西堀榮三郎に請われて第一次南極観測隊に参加する。

1956年の第一次遠征隊(西堀栄三郎越冬隊長)設営担当。第二次隊副隊長。第三次隊越冬隊長。第五次隊観測隊長兼越冬隊長。第七次観測隊隊長。そして1968年には第9次越冬隊を率いて日本人として初めて南極点に到達した。

1959年に結ばれた南極条約では、第一条一項で「南極地域は平和的目的にのみ利用する」とあり、南極の平和利用のために領土権、領土請求権を30年間凍結し、南極に人類の理想を実現しようとした。

南極越冬隊の生活については、村山雅美『昭和基地』で垣間見ることができる。例えば、第五次隊は16人であり、娯楽といえばマージャンと映画であった。異常な寒さと強風の中での問題は他の国と同様にトイレであった。 1983年公開の映画「南極物語」を監修しているが、この映画では第三次隊が「タロ」と「ジロ」という樺太犬が一年間の風雪に耐えて生き延びていた感動的な物語が展開される。当時のマスコミで大きな話題になった。

 探検家であり、南極のプロフェッショナルの村山雅美は 「追いつめられたときの多数決は、大変危険です。気弱になった集団の多数意見は、往々にして誤る」と語る。厳しい状況下では、リーダーの責任が重大であるということだ。

村山雅美は「無理と無謀」の違いを強調した。これは「探検と冒険」の違いに通じる。探検部員だった私は、「危険を冒すのが冒険、危険を除去しながら探り調べるのが探検」と先輩に教えられた。世界の最高峰登山の経験があり、地球の極地を熟知した村山雅美の危険への対処方針と実績には頭が下がる。起業家は事前にリスクを除去するために力を注ぐから、保守的な人びとである、とドラッカーが喝破していてうなったことがある。探検家はイノベーターと同様に、革新を掲げる保守的な態度の人たちなのだ。

昭和基地―南極に挑む男たちの記録 (1966年) (ブルーバックス)