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大学

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・教授会:人事

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ラウンジ

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・彩藤先生、志賀先生。

・飯田先生

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「名言との対話」11月21日。立川談志「落語とは「業」の肯定である」

立川 談志(たてかわ だんし、1936年昭和11年〉1月2日 - 2011年平成23年〉11月21日)は、東京府小石川区(現:東京都文京区)出身の落語家落語立川流家元

27歳で真打に昇進した天才落語家。1966年、30歳、日本テレビ笑点」を企画し、初代司会をつとめる。35歳、参議院議員に当選。47歳、落語立川流を結成し、家元となる。

談志は古典落語を貫いたのだが、その中で「己を語る」独自の型を発明した人である。談志の感覚でしゃべる。登場人物が談志と被る。談志という人間を語る。つまり、自分語る芸である。落語を一人称で語った人だ。

談志には著書が多い。20代から書いていて累計で50冊以上になる。落語論、芸人論、自伝、評論、小説など分野は多岐にわたっているが、根底にあるテーマは「落語とは何か」だった。

手塚治虫舞の海のファンでもあり、各界の友人が多かった。談志が32歳の頃に行った紀伊国屋書店田辺茂一との対談は際どいが面白い。田辺は「夜の新宿市長」と呼ばれた遊び人である。談志は58歳で、『酔人・田辺茂一伝』を書いている。長く付き合ったことがわかる。

「狂気と冒険」が信条で、サインするときはよく書いていた。弟子は「芸人100点、人間0点」と語る。58歳、喉頭ガン。65歳、ライバル志ん朝の死。66歳、師匠小さんの死。74歳、声門ガン。享年75。生前に自分でつけた戒名は、立川雲黒斎元勝手居士だ。

談志の晩年の70代に仙台で噺を聞いたことがある。ほとんどは病気の愚痴だった。最盛期の談志を生で見たかったと残念に思った。

 

「多数に胡坐の自民党、何でも反対社会党、みんなロボット公明党、力の足りない民社党、日本にゃ向かない共産党、あるのかないのか社民連」「ひとつの仕事に就いてみてそれが面白くなってくるなら分かる。あなたにとっていい仕事なんだと思う」。「やだね〜」の独特の言い回しは談志の代名詞となり、頻繁にものまねされた。

談志は日本は法治国家ではなく、「情治国家」だと喝破していた。そういう国柄だからこそ、落語は廃れないのだろう。談志が関与した分野は広大だが、「おれには落語っていう拠り所がある」というように落語という立地点が確かだったから、思う存分に暴れられたのだろう。人間の「業(ごう)」とは、道徳や常識を振りかざすことではなく、欲望に弱く怠惰な人間の性(さが)を受け止めて赦し自分も同じだと笑う、ということだと思う。落語の人気は確かに「肯定」にある。

立川談志 増補新版 (KAWADE夢ムック 文藝別冊)

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