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神保町の古本屋街で過ごす。
つい25冊ほど購入してしまったが、1万2千円ほどで済む。やはり、この街には通わないと。新刊書の三省堂にも「古本」コーナーがある。日曜・祝日は休みの古本屋が多いのは困る。
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今日の収穫
12月9日の日経文化欄に映画の吉田喜重監督(1933年生)の「小説と映画のはざま」と題するエッセイを載っている。70歳を過ぎた折、たまたまなってしまった映画監督を辞めて自分が天職と考えてきた文学、言葉の世界に還ろうと思うと言う。映像はあいまいで相手の想像力にゆだねるものであり、小説では「わたし」自身を登場させることができるからだ。十歳の頃に名前を知った「アドルフ・ヘス」というナチス副総統(1941年にイギリスに亡命)を題材に虚実入り混じった小説『自己処刑 ルドルフ・ヘス』を10年近い歳月を費やして2019年夏に上梓するとのことだ。86歳で天職にたどりついたのだろう。
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「名言との対話」12月9日。坂口謹一郎「酒は生き物が造り、その上にに人間という微妙なセンスの動物が鑑賞するのであるから、今、科学にとってこれほど手ごわい相手はたくさんいない」
坂口 謹一郎(さかぐち きんいちろう、1897年11月17日 - 1994年12月9日)は、日本の農芸化学者。
発酵、醸造に関する研究では世界的権威の一人で、「酒の博士」として知られた。 結核を患っていたため禁酒令が医者から出ていたが、禁酒令が無意味だったことがわかり、40歳で酒を覚えた。これ以降、体重が増えて健康になった。
「酒によりて得がたきを得しいのちなれば酒にささげむと思い切りぬる」。
50歳で歌を詠み始める。旅の途中で「歌のようなもの」を書くくせがあると自嘲しているが、1975年には新春御歌会始めに召人とのなっているから優れた歌人でもあったのだろう。
「うま酒は うましともなく 飲むうちに 酔ひてののちも 口のさやけき」。
「スコッチのつはものこもる古城にはるけくともるまもりのともしび」
「かぐわしき香り流る酒庫(くら)のうち静かに湧けりこれのもろみは」
「とつくにのさけにまさりてひのもとのさけはかほりもあじもさやけき」
「うつりゆく世相横目にこの余生いかに生きなむと盃に対する」
「うちに千万無量の複雑性を蔵しながら、さわりなく水の如くに飲める」酒がいいとのことだ。吟醸酒のブームを予言していたように思える。
坂口は微生物の培養に用いられる坂口フラスコを発明している。そして1967年には「永年にわたる微生物学の基礎および応用の分野における貢献」によって文化勲章、1974年には勲一等瑞宝章を受章した。那覇の沖縄県酒造組合の前庭には揮ごうした「君知るや 名酒 あわもり」の文字が刻まれた大きな石がある。故郷の上越市にはその業績を記念した「坂口記念館」があるが、その建物は元々同じ高田市内にあった旧家を移築したものである。那覇と上越には訪問しなければならない。
ベストセラーになった『世界の酒』 (岩波新書)以降、『日本の酒』、『古酒新酒』、『愛酒楽酔』、著作集『坂口謹一郎酒学集成』(全5巻)などを書いた。『愛酒楽酔』の中に、先日訪問した山梨県登美のサントリーのワイナリーの創設時のエピソードがあった。国産のシャンパン酒をつくろうとした日本は、ラインのぶどう酒の専門家であるハムというドイツ軍人を雇って山梨県登美村に東洋一の大ぶどう園をつくるが、大震災もあり荒廃した。寿屋の鳥井信治郎社長が赤玉ポートワインをつくるのに国産ぶどうを使いたいというので、坂口は川上善兵衛の指導を受けることをすすめた。川上は登美の農園を買うことを鳥井にすすめた。こういう経緯が書いてある。また、この本は、1992年にサントリー広報室の小玉武に依頼したとある。小玉さんはTBSブリタニカ時代に「知的生産の技術」研究会の出版の関係でお会いしたことがある方だった。
- 作者: 坂口謹一郎
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1992/04
- メディア: 文庫
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