「こえラボ」の「経営者の志」インタビューに出演。
人生をどのように歩んでいらっしゃるでしょうか?
今回ご紹介する多摩大学の久恒啓一先生はもともとビジネスマンでした。ビジネス経験と知的生産研究会を両立し、書籍を出版され、大学で教えられることとなり、人生を探検されているという言葉が印象的でした。
そして、人物記念館も多数回られて、毎日ブログで偉人についてご紹介されています。
その記事を元に、書籍を出版されたり、こえラボからもポッドキャストとして『偉人の名言』を毎日発信されています。
「偉人とは、影響力の大きい人」そのように定義づけられ、多くの偉人について調べて、偉人が絞り出した名言を伝え、その奥にある人生観を伝えられています。そこから発展した『ビジネスに活かす偉人の名言』という音声講座も開始となりました。戦後の焼け野原の状態から、さまざまな志を持った企業が立ち上がりました。まさに、そんな厳しい時代から多くのことが学ぶことができます。
そして、今は失われた25年とも言われ、戦後と同じような時代とも言えるかもしれません。ぜひ、偉人の名言をビジネスに生かしていただければと思います。
2週間無料キャンペーンも実施していますので、まずは2週間分聴いてみてはいかがでしょう。詳細は説明文にあるURLからチェックしてみてください。
【今回のゲスト】
多摩大学 久恒啓一(ひさつね・けいいち)さん
『ビジネスに活かす偉人の名言』
https://meigen.koelab.net/
ポッドキャスト・コンシェルジュ こえラボ
https://koelab.co.jp/
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一般入試初日。本部詰め。
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今日の収穫。『致知』3月号。
・北康利「私が評伝に取り上げるのは、その時の日本人に最も訴えたいことを代弁してくれる人物だ」「それ(志)に従って一日一日を精一杯生きることこそが大切であり、、、またそういう肚の固まった人間は、仮に途中で倒れようとも悔いは残らないと私は思う」
・童門冬二「人物の探求に終わりなし」「起承転転」「少しはまともに働きながら、こつこつ自分の文学を育てていこう」「現地を訪ね、さらには郷土史家の書いたものをどっさり買い込んでネタとして活用」「汗とか油を流して努力を続ける人間、つまりプロセスに生きている人間が僕は好きなんです」
・ドラッカー:「あなたの本の中で最高のものはどれか」と聞かれ、「次の本です」と答えていた。95年の生涯で40冊に迫る著作。その3分の2は60歳を超えてからのもの。
・成毛真「三千時間」。
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「名言との対話」。2月2日。岡野俊一郎「試合終了の笛は、次の試合のスタートの合図だ」
岡野 俊一郎(おかの しゅんいちろう、1931年8月28日 - 2017年2月2日)は、東京都出身のサッカー選手・サッカー指導者。第9代日本サッカー協会会長。
「立志、開拓、創作」が教訓でジェントルマンを育てる都立五中(小石川高校)に入りサッカーに目覚める。それ以降、偶然の連続でサッカー人生を送る。大学4年の時に現座のユニバーシアードの日本代表に選ばれ西ドイツでプレーしたとき、「将来、何かスポーツの仕事を手伝いたい」と思う。志が決まった瞬間である。
サッカー審判員、ユース代表監督、東京五輪のジュニア代表監督、代表チームのコーチ、日本リーグの設立、メキシコ五輪のコーチ兼選手で銅メダル、テレビのサッカー解説者、日本代表監督、筑波大非常勤講師、日本体育協会理事、日本オリンピック委員会総務理事、「全国こども電話相談室」のレギュラー回答者、中教審・臨教審・生涯学習審議会委員、体協副会長、国際オリンピック委員会(IOC)委員、日本サッカー協会会長、サッカーミュージアム初代館長などを歴任した。まさに日本サッカーの歴史ともに歩んだ人だ。
なぜこういうことができたか。岡野の実家は上野の老舗和菓子店だった。サッカーの仕事を頼まれればするし、辞めれば店の経営に戻るという境遇だったからできたことである。音楽でもそうだが、日本ではこういう幸運がないとなかなかスポーツの指導者への道は厳しいものがある。
「チームの中で自分の役割を果たすには、チームの一員としてチームにプラスになる自分の長所を伸ばし、マイナスになる短所を消していく毎日の努力を怠ってはいけない」。チームワークを常に考えていた人である。
岡野は、20年五輪には大会コンセプトが明確でない、組織が複雑、経費ばかりが膨らみ何も後世に残らないことになるのではないか、と心配している。4年ごとに外国から代表監督を招聘しているが、結果は全く出ていない。一次リーグで敗退したリオの検証もできていない、組織はあるが誰が指導しているのかよく見えない、とも言う。「五輪招致活動とはこういうもの」ということも学んだと書いている。ソウルと名古屋が争ったとき、アフリカの関係者から条件を飲めば票をまとめるとの電話もあった。当時の日本のIOCは純粋だ、と語っているから、外には出せない事情があるのだろう。
また岡野は、選手の育成には地道な努力と財源が必要であり、財源面ではtotoができたことが大きいとしている。この仕組みと努力が最近の五輪のメダルラッシュにつながったのである。
ロンドン五輪から戻って肺がんが見つかるが、免疫力が強いようで2016年10月にスポーツニッポンに連載された原稿を書いている時点で4年経っているが元気だった。この免疫力はサッカーのおかげだと医者は言っていた。
師事したクラマーの「試合終了の笛は、次の試合のスタートの合図だ」という言葉は、岡野も多用していた。何事も気を抜いたらダメだという心構えである。その岡野俊一郎は子どもたちに「スポーツをやりなさい!」という言葉を残した。スポニチの連載の最後には、2020年の東京五輪を大成功で終わらせて欲しい。そのカギはチームワークであると締めくくっている。自分は見られないだろうとも言い、そのとおりになってしまった。「チームワークで東京五輪を大成功に」は日本サッカー界の指導者であった岡野俊一郎の遺言である。