本年度最後の入試。

  大学。

・松本先生

・杉田先生・金先生

・午後:入試本部詰め。本年度最後の入試。

研究室

・ZOOMで仙台の岩澤君と「多摩大学時代の総決算」の編集ミーティング。最終段階。

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「名言との対話」3月7日。鶴岡一人「グラウンドにはゼニが落ちている」

鶴岡 一人(つるおか かずと(かずんど)、1916年7月27日 - 2000年3月7日)は、プロ野球選手内野手)・監督野球解説者 

愛称は鶴岡親分ツルさん。初代「ミスターホークス」「ドン鶴岡」とも呼ばれた。南海ホークスの黄金時代を築いた名監督で、日本プロ野球史を代表する指導者の一人。一軍監督として通算1773勝を挙げ、プロ野球史上最多勝監督としても知られる。

広島県呉市の小学5年生で少年野球を始め、広島商業高校、法政大学、南海ホークスの選手、監督をつとめ、退任後も野球評論と、野球一筋の人生行路の人である。広島商での練習のあまりのきつさに退部しかけたが、先輩の説教で思いとどまった。「全く人の運命はわからない」は、日経『私の履歴書』の鶴岡の述懐である。

軍隊にとられるなら「好きなことをやって死のう」と考え当時は野球芸人とさげすまれていたプロ野球に入る。大卒で初めてストレートでプロ入りし、新興の南海ホークスに入団し、すぐに主将となる。2000人を率いた中隊長を経験した軍隊生活を経て、復帰。29歳で監督兼選手として7年間過ごす。リーグ優勝を4度、最高殊勲選手にも選ばれた。

知識、判断力、小細工のきく選手を集め、「ガメつい野球」といわれる。機動力野球の元祖だった。選手育成のファームを創設。プロ野球最初のスカウト制度の確立プロ野球初の専属スコアラーとして採用し、メジャーリーグにも無かった世界初の「データ野球」を導入。複雑な「ブロックサイン」を創り上げる。編成や契約金にも関与するGMの走りだった。

サラリーマンがやってみたい職業としてプロ野球監督があげられることが多い。鶴岡は「指揮官が悪いと部隊は全滅する」と言い、「自分の構想に沿ってチームを編成し、オーダーを組み、投手起用を考え、作戦、用兵の決断を下すプロ野球監督の仕事は、男冥利に尽きる」と語っているのは、やはりという感じがする。鶴岡は選手を誉めない監督だったのだが、自身の監督生活を振り返って、「23年間の監督生活は、5対5を6対4に、さらに7対3にするための努力の日々だった」と見方を増やす日々だったと述懐している。

勝率.609は歴代監督の中でも唯一の6割超えだ。特に1950年に「パシフィック・リーグ」となってから辞任するまでの19年間では、優勝:9回(うち日本一2回)、2位:9回。成績表をみると、ほとんど1位と2位しかないのは見事だ。同時代のライバルは、水原、三原だった。強い南海ホークスの姿は子ども時代によく覚えている。

ゼニのとれる選手。ゼニになる野球。ゼニが欲しけりゃ練習せえ。そして、「グランドにはゼニが落ちている」との名言を放っている。当時は精神野球の立場からの批判もあったが、今となっては近代プロ野球そのものだ。鶴岡一人は創成期のプロ野球のイノベーターだったのだ。

「15尺の土俵。あの中にはなんでも落ちている。女房、金、ダイヤモンド、全てがある。全人生がある」と言った、一回り若い横綱の初代・若乃花と同様のプロフェッショナルの見方だった。厳しいプロの世界はこういうものだろう。

 

参考『私の履歴書プロ野球伝説の名将』(日経ビジネス人文庫