イチロー凱旋。どういう出処進退になるのか。そこに興味がある。

イチロー凱旋。

どういう出処進退になるのか。そこに興味がある。

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永山で編集者と面談。

・「名経営者の言葉」の修正箇所の確認と相談。

・次の企画の話題も。

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「名言との対話」3月18日。鴨居羊子金づちでも、ナベでもいい。ものをつくる方になりたかった。他人がつくったものを批判するのは、私自身もうたくさんだ」

鴨居 羊子(かもい ようこ、本名:洋子1925年2月12日 - 1991年3月18日)は、日本の下着デザイナー

弟は「自画像の画家」と呼ばれた洋画家の鴨居玲夕刊紙「関西西」の校閲部、大阪読売新聞の学芸課記者を経て、「ものづくり」を志して独立する。人間が動物と違うのは衣服を着ること、皮膚に一番近いのは下着だと考え、1956年に下着をテーマとする会社「チュニック制作室」を起業する。古代ギリシャ人やローマが着ていた貫頭衣(中央の穴から頭を出して着る)の名称から採った。

着物のノーパン時代、白い質素な木綿のズロースの時代に、下着デザイナーとしてナイロンなどの新素材を用いてカラフルなスリップやセクシーなガーターベルトなどを製造・販売し、女性の関心を集めた。きれいでおしゃれであることと高い実用性を両立させる下着を開発したのだ。そして黄色は鬼門、紫は失恋色、緑は囚人色だとの批判や常識を打破した、日本女性の下着革命だった。

「スキャンティ」と鴨居羊子からの命名された履きこみの浅い下着は、発売当時「画期的な七色のパンツ」が広告コピーだった。絵の個展と同じように、下着の個展を開き、実物を気に入った人が注文するという販売方法も斬新だ。最初の個展では50万円の売り上げがあった。チュニック株式会社は、今では大阪と兵庫に直営店があり、伊勢丹松坂屋名鉄高島屋岩田屋に店がある。

デザイナー、油絵を描く画家、人形制作者など、アーチストしても多彩な才能があった人だが、さらに文章もうまくエッセイストとしても活躍した。著書には『下着ぶんか論 解放された下着とその下着観』『女は下着で作られる』『わたしは驢馬に乗って下着を売りにゆきたい』などがある。

この人の影響はまだ続いていて、死後20年経った2010年には川崎市岡本太郎美術館で「前衛下着道 鴨居羊子とその時代展」が開催されている。

冒頭の言葉は出久根達郎『百貌百言』にも鴨居羊子の項から採った。出久根は、逸話はは信頼できる伝記から拾い、名言は自伝からとって本に仕上げている。傍観する人、批判する人、批評する人。鴨居羊子は、そういう人ではなく、ものをなす人、ものをつくる人になろうとした女性である。新聞記者から、ものづくりの人への転身という自己革命が、女性の下着革命を起こしたのである。

 

百貌百言 (文春新書)

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