最後の教授会挨拶「紙、泥、そして木、次は鉄の船へ」

午前。

学部運営委員会の後、教授会。新レイアウト。

f:id:k-hisatune:20190328084819p:plain

3月の教授会なので、最後に挨拶。

「今年は横綱稀勢の里・メジャートップのイチローが引退しましたが、私も同じタイミングで専任を退任します。多摩大の30年。最初の10年は大学改革の旗手として黄金の輝きで航海を始めました。ただこの船は「紙」の船でした。次の10年は牡蠣殻がつき速度が落ち最後は「泥」の船に変わりました。2008年に着任し状況を把握し、野田先生がつくり寺島先生が学長をつとめる多摩大の再建を担うことになりましたが、それは私の「天命」と考えました。この10年で教職員一丸となって努力し「再建のステージ」は完了しました。素晴らしい仲間との年月は私の宝です。皆さんと一緒に「木」の船に作り替えることができたと思います。今からの10年、少子化の一段の進行・専門職大学の発足など波が高いけれど、チームワークという強力なエンジンが装着できているので、十分に戦える体制にあります。次の10年で木の船を「鉄」の船に改造していくことを期待しています。ありがとうございました」。

f:id:k-hisatune:20190328114517p:plain


 ---------------------- 

 

多摩大学時代の総決算」を各課の職員へ配布。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

夜は、近所の蕎麦屋「古潭」で、以前から約束していた山本さんを励ます会。高野課長と久恒夫妻の4人で越し方と次の展開を話題に楽しい時間を過ごす。

 f:id:k-hisatune:20190328081159j:image

ーーーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」3月27日。児島襄「指揮官が指導し、参謀が計画し、下士官が運営し、兵が動く。、、、中でも参謀は他の三つにくらべて、重要視される」

児島 襄(こじま のぼる、1927年1月26日 - 2001年3月27日)は、 戦記作品を多数著した日本作家である。

旧制高校時代東京裁判の法廷に通う。大学院では米国の極東政策を専攻。卒業後、共同通信社に入社し外信部記者となる。日本の政治外交史の理解には戦争史の研究が不可欠と考え、1964年に退社し作家活動に入る。1966年『太平洋戦争』で毎日出版文化賞を受賞。以後、第二次大戦前後の日本をテーマに執筆する。資料収集と関係者への取材を重ね、近現代の戦史、外交史を踏まえた作品を数多く発表した。

身長190センチ、体重120キロの巨漢は、精力的に膨大な著作を書いた。『東京裁判』(上下)。『太平洋戦争』。『日露戦争』(文庫全8巻)。『日中戦争』。『朝鮮戦争』。『満州帝国』。『日本占領』。『日本国憲法』。『開戦前夜』。『講和条約』、、。こういった児島の著書を年代順に読むと、日露戦争から戦後までの日本の政治と戦争の流れがつかめることになる。児島は自分のために書いたのであろう。司馬遼太郎が、戦争に落ち込んでいった自分の国の原点を探るために、中世から近代までの日本の時代を網羅して小説を書いたのと同様に、「近現代」を一貫して書いた。一方で、その時代を生きた人物にも焦点をあてた本もある。昭和天皇大山巌ヒトラー、南雲忠、栗田健男、山下奏文など。

その副産物でもあろうが、『指揮官』と対をなす『参謀』も上梓している。どの国も軍隊は、指揮官が指導し、参謀が計画し、下士官が運営し、兵が動くという構造になっている。参謀は軍隊組織の中枢だ。近代的「参謀」は計画と統制を具備したプロシア軍が模範となった。児島襄『参謀』(上)は、第二次大戦中の日本陸海軍の参謀15人を取り上げた名著だ。

40代半ばまで勤めていた企業の参謀を志していた私は、日露開戦の秋山真之参謀をモデルに励んでいたが、この本も熟読していた。今回改めて、石原莞爾、辻正信、杉山元の項を再読したが、参謀たちの実像を乾いた文章で示す手腕に感銘を受けた。 

参謀 (上) (文春文庫)

参謀 (上) (文春文庫)