私のミニ「平成史」。「藪野健 時空散歩」展

平成元年(1989年)の1月初めにはJAL広報部で創刊した「おおぞらウイークリー」の編集長として昭和天皇崩御の号外をどういう写真を使って、どういう構成にするかを練っていた記憶から私の平成史は始まった。その年の12月には課長に昇進し、従来からあった3誌に加え新たに3誌(おおぞらウイークリー、月刊Currents、ActionProgram)を創刊して総括していく立場となり、「完全民営化」をテーマに沈滞した組織の改革に向けて張り切って仕事をしていた。平成2年(1990年)には「図解の技術」という最初の単著を出した。

平成5年(1994年)にはバブル崩壊で赤字になり、社長をトップする社内改革組織・サービス委員会の事務局メンバーに選ばれ、サービスという面から一大改革を推進する立場になった。「大企業病の克服」という大きなテーマに全力で挑み、自身の成長を実感する日々だった。以上、「青年期後期」。

平成9年(1997年)に、早期退職し仙台に新設された県立宮城大学の教授に転身する。当初4年間は野田一夫学長を補佐し、宮城県の活性化を目指して「21世紀の新しい公立大学の建学」に邁進する。平成14年(2002年)に「図で考える人は仕事ができる」(日経)がベストセラーになり環境が一変し、産学官民のあらゆる組織に接する機会を得た。後半は再び、学務にいそしむ。新しい大学を創っていくという貴重な経験をした。以上「壮年期前期」

平成20年(2008年)に、東京の多摩大学に転出する。ここでは2012年から学部長、2015年から副学長という要職で寺島実郎学長を補佐し、危機にあった「多摩大の再建」を果たし、満足感をもって退任を決意する。この間、二人の子どももひとり立ちした。以上、「壮年期後期」。

平成31年(2019年)3月で専任教授を退任し、4月から特任教授となる。

簡単に言えば、以上が私の「平成史」だ。常に「改革」「創造」の任にあたってきており、存分にエネルギーを燃焼した感がある。この4月の一ヶ月は平成時代を終えて、新たな令和時代に向けての切り替えの期間だった。今後、やるべきテーマ、そしてなすべきライフワークも見えており、それを実行していくことにしよう。私自身も「実年期」という新たなステージに入った。令和の新天皇と並走していこう。

ーーーーーーー

多摩美術大学美術館で開催中の「藪野健 時空散歩」展。

・街を描くとは、人々の生活を描くことではないか。

・その日の出来事はデッサンや地図に起こして描きこむようにした。日記でもあるのだ。

・出会い「もし早稲田大学で学ばなかったら画家の道を選ばなかった」。安藤更正(文学部美術史科)。今井兼次(建築学科)。坂崎乙郎政経学部)。

1943年生。早稲田大学大学院文学研究科芸術専攻美術史修士課程修了。マドリードで学ぶ。1976年、早稲田大学理工学部非常勤講師(西洋美術史)、武蔵野美術短大講師(絵画)。、、、1999年、早稲田大学芸術学校教授。2010年、早稲田大学基幹理工学部表現工学科教授(67歳)。2011年、早稲田大学会津八一記念博物館長(68歳)。2015年、府中市美術館長(72歳)。

 

下記は、デッサン準備。

f:id:k-hisatune:20190501063523j:image

 早稲田大学演劇博物館。

f:id:k-hisatune:20190501064630j:image

 

東京大絵地図。

・江戸東京は1603年に開府以来現在まで400年以上になるが、50回以上の地震、火災、富士山の爆発、空襲など大災害を被ってきた。

f:id:k-hisatune:20190501063554j:image

藪野メソッド(by 井上明久)

 ・エリアのすべてを歩き廻る。町並みと風景をみて全体としてとらえる。その中から興味深い一画や通りを選ぶ。その中からこれぞという建物にフォーカスを当てて、水彩画で描きだす。携帯の折りたたみ椅子に座る。仰角の視線が生まれる。地上50センチ、ロー・アングル。絵が描かれた時点での現在にこだわる。実景である。

・「藪野ブルー」。紺碧の空。澄み渡った青空。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

カラダの日。

・朝:ヨガを1時間。

・午後:スポーツクラブ。ウオーキング40分4キロ。筋トレ。ストレッチ。水泳300m。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 「名言との対話」4月30日。九條今日子「わたしは寺山がプレゼントしてくれる、人生の楽しみ方に夢中になっていた」

九條 今日子(くじょう きょうこ、1935年10月22日 - 2014年4月30日)は、日本女優、演劇、映画プロデューサー。

久條今日子(本名は映子)は華やかな舞台にあこがれSKDに入る。松竹映画の青春スターとして、自身のファンという無名の詩人として出会う。「この人と結婚したら毎日が退屈しないでおくれるにちがいない」と考え、1963年に結婚。劇団・天井桟敷を創立。制作スタッフとしての多忙な日々を送る。1970年の離婚後も寺山修司のパートナーとして活動を支えた。

寺山の没後10年になろうとする1985年刊の著書『ムッシュウ・寺山修司』では、天才・寺山修司の生身の姿が記されている。休んでいることは罪悪だ。計画魔。スケジュール表。二番目に興味。大食漢。電気の球が取り替えらえない。本屋に入りびたり。映画館に逃げ込む。私生活の無い人、寂しがり屋、、、、、、。

 1997年にできた三沢市寺山修司記念館の設立に力を注ぎ、名誉館長となる。寺山作品の著作権管理を行い、全国各地で講演を行うなどしていた。『回想・寺山修司 百年たったら帰っておいで』 (角川文庫)、『寺山修司・斎藤慎爾の世界―永遠のアドレッセンス』などの著書で、寺山修司の知られざる一面を残している。

 「思えば不思議な人だった」と「あとがき」にある。スーパマン、わがままな子供、かけがえのない親友、傲慢な家主、影武者、結婚サギ師、純粋な天使。この変転極まりない男の魅力に振り回された人生だった。というよりも、百面相の魅力を持つ男から繰り出される言葉と行動に夢中になっていったのだ。出会いによって人生の方向と景色は一変する。特に女性はその落差が大きい。九條今日子は、夫婦時代も、離婚後も、そして没後も、寺山修司を存分に楽しんだのであろう。