田沼武能写真展(世田谷美術館)

本日から「令和」の時代に入る。

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田沼武能写真展(世田谷美術館

田沼武能(1929年生)は90歳を超えてな今なお現役の写真家。

東京写真工業専門学校卒業後、20歳、サン・ニュース・フォト社に入社。木村伊兵衛の助手としてスタート。「芸術新潮」の嘱託写真家として文化人の肖像写真家として注目を浴びる。36歳、アメリカのタイム・ライフ社と契約し、フォト・ジャーナリズムぼ分野でも活躍する。45歳、初の写真集「武蔵野」。46歳、日本写真協会年度賞。50歳、モービル児童文化賞。51歳、写真集「下町ひと昔」。54歳、写真集「東京の中の江戸」。

55歳から、黒柳徹子ユニセフ親善大使の援助国訪問では1984年の初回以来すべてに同行。120ヵ国を越える世界中の子どもを撮影。56歳、菊池寛賞。61歳、紫綬褒章。64歳、写真集「東京の戦後」。66歳、日本写真家協会会長、東京工芸大学芸術学部教授。67歳、写真集「下町今昔物語」。71歳、日本写真著作権協会会長、全日本写真連盟会長。73歳、勲三等瑞宝章、写真集「輝く瞳 世界の子ども」。74歳、文化功労者。75歳、写真集「六十億の肖像」。77歳、日本写真保存センター設立推進運動副会長、写真集「武蔵野賛歌」。85歳、日本写真家協会功労賞。今回の企画展は卒寿の90歳。たゆみなく仕事をし続けている人だ。そして、だんだん大きくなっていく人だ。

「人間大好き人間」田沼のライフワークは3つ。文化人の肖像、世界の子ども、戦後東京である。

この写真展は、戦後の1948年から1964年の東京オリンピックまでの東京を撮った企画展で、「子どもは時代の鏡」「下町百景」「忘れえぬ街の貌」の3つの視点で構成されている。 「昔はものはなかったが、人情だけはあった」。

東京わが残像 1948-1964 ―田沼武能写真集

東京わが残像 1948-1964 ―田沼武能写真集

 

 ショップで『時代を刻んだ 貌 田沼武能写真集』も購入。「顔は精神の門にしてその肖像」。昭和の文化を創りあげた諸家240目の傑作写真集。これはまさに偉業だ。 

時代を刻んだ貌―田沼武能写真集

時代を刻んだ貌―田沼武能写真集

 

 『芸術新潮』『新潮』の仕事を中心に、文化人を撮りまくった。その集大成がこの写真集だ。「芸と理を究む」「詩文の世界で」「空間とデザイン」「絵画と彫刻と」の4部構成で、昭和を彩る著名人の肖像は圧巻だ。そしてそれぞれの人物についての取材メモもついている。臨場感ふれる言葉で、撮影時の様子や、本人の言葉などがあり、この写真集の価値を高めている。例えば「寺山修司」は、「まず居場所がわからない」から始まる。柳田国男は「話好きで、新しく仕入れた話は、他人に聞かせないと気がすまないようなご性格」。金子兜太「なんとなく銀行に遠慮しているようであった」。谷崎潤一郎「5分だけ」。井伏鱒二「先生はお酒が入ると、話が面白くなる」。司馬遼太郎「『関ヶ原』の取材に同行した」。新田次郎「人目をはばかる役所の中で」。三島由紀夫「せめて御木本翁くらいに永いきして」。横山大観「朝に昼に晩に、食事に酒を欠かさない」。、、、、、。素晴らしい写真集だ。

木村伊兵衛からは「おれの真似をしていても、おれ以上にうまくはならない」と言われ、この言葉は座右の銘になった。

「写真家という職業につたおかげで、あらゆる職業の方々と出会い、お話することができた」。

「「貌」はその人の歴史、その人の心、内面までも写し撮ることができると、私は考える。またそれが表現できたとき、はじめて優れた肖像写真と言えるのではないか、その極みに近づきたいと私は日夜努力している」

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「名言との対話」5月1日。アルトン・セナ「2位になるということは敗者のトップになるということ」

 アイルトン・セナ・ダ・シルバAyrton Senna da Silva1960年3月21日 - 1994年5月1日)は、ブラジル人の元レーシング・ドライバー

 F1世界選手権において、1988年1990年1991年と、計3度ワールドチャンピオンを獲得した。異称は、「Genius(天才)」「マジック・セナ」「音速の貴公子」など。セナは多くの投票で「史上最高のF1ドライバー」や「史上最も影響力のあるF1ドライバー」に選出されている

F1とは50年に英国で始まった世界最高峰の一人乗りマシンで競う自動車レースの最高峰。現在11チームが参戦。世界17カ国を回って、ドライバーズ、コンストラクターズ部門で優勝を競う。最高時速は300キロを超える。1レースの走行距離は約300キロ。日本を含む世界中でレースがあり順位ポイントで年間王者を競う。セナはそのチャンピオンを3度獲った天才である。F1に興味がない人でもセナの名前は知っていた。

以下、セナの言葉から。

「自分の考えや信条を持たず、困難や挫折から目をそらし、毎日をいいかげんに生きている人間ほど哀れなものはない」「130Rに差しかかった時に神が現れたんだ。眩いばかりの光が差し、神に導かれた僕はレースを支配している気分になった」「神を見た」「恐怖は自分をワクワクさせる」「この世に生を受けたことそれが最大のチャンスじゃないか」

セナは死にも言及していた。「生きるならば、完全な、そして強烈な人生を送りたい。僕はそういう人間だ。事故で死ぬなら、一瞬のうちに死にたい」「僕はひどいケガをして病院で唸っているのも好きじゃない。もし、事故で命を失うようなことになるんだったら、一瞬に終わってほしい」

1994年5月1日にセナは34歳で事故死する。生きているときも、死ぬときも、セナが描いたイメージ通りであった。

2位は敗者である。トップ以外は負けなのだ。そういう強烈な闘争心がなければ一流にはなれない。オリンピックに出ようとするトップアスリートたちがこぞって、「金メダル」というのも同じだろう。最高の舞台で、世界の頂点に立った景色を見ることは、神に導かれなければ実現できないのだ。