大学。打ち合わせ、授業準備、原稿完成・送付、、、。

午前:近藤秘書と打ち合わせ。授業準備。雑誌原稿完成・送付。、、、。

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昼:長島先生と懇談

ラウンジ:今泉先生(院教務委員長)と大学院の現状について情報交換。金先生、趙先生、、、。

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ジム:ストレッチ、筋トレ、ウオーキング30分、バス。イヤフォンで、「カルチャーラジオ文学の世界」の宮脇俊三の世界を2本聴く。幼少時代も含め、知らないこともあった。

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「名言との対話」7月18日。宮本顕治「人間は覚悟をきめるということが大事なんです」

宮本 顕治(みやもと けんじ、1908年10月17日 - 2007年7月18日)は、日本政治家文芸評論家

山口県生まれ。貧乏な家に生まれ、「なぜ世の中には金持ちと貧乏人がいるのか」と疑問を持つ。徳山中学を出て、松山高校では柔道部から弁論部。東大経済学部時代には芥川龍之介論の50枚の『「敗北」の文学』で総合雑誌「改造」の懸賞論文で一等賞。次席は「様々なる意匠」を書いて一等賞を確信していた小林秀雄だった。1932年共産党の同志となった、9歳年上の小説家・中条百合子と結婚するも、2ヶ月で百合子が検挙される。1933年、地下にもぐるが、スパイによって逮捕される。1934年、獄中で入籍。百合子は宮本を支え続けた。

拷問はきつかったが、うける側の肉体的限界があり失神してしまうとやっても意味がないという。60キロの体重が40キロになった。未決の間は時間があり、運動と党の発展の可能性には洋々とした展望と希望を持って、人類の遺産のすぐれたものを体系的に学んでいる。終戦後の1945年10月9日に、12年間の監獄生活を終えて、終え網走監獄から3出所したときは37歳になっていた。二人が交わした900通の手紙は、1951年の百合子の没後『十二年の手紙』として刊行されている。

1950年の党の分裂を経て、共産主義の本家であるソ連や中国に相談せず、日本独自の綱領をつくった。それは科学的社会主義の理論を日本の現実に創造的に適用したものであり、敵はアメリカ帝国主義と日本独占資本という政治路線だった。この日本共産党の自主独立路線のおかげで、1960年代の中ソ対立の時にも党の方針は揺らぐことがなかった。宮本顕治は、1958年に書記長、1970年に委員長、1982年に中央委員会議長に選出された。

1997年の第21回党大会の閉会あいさつで不破哲三委員長は、「宮本前議長が党の中央委員会に参加したのは戦前の一九三三年、それいらい、六十四年間、ほぼ三分の二世紀という長期にわたって、党の指導の先頭にたって活動してきました」と讃えた。宮本は名誉議長となった。

今回読んだ『宮本顕治青春論』では、「知的目ざめによって自分たちの生涯を飾る青春を本当に光あるものにしようではないか」と「ヤング・ジャンプ’82」での講演で若者に語っている。現在の日本共産党委員長の志位和夫は宮本の長男・太郎の家庭教師であった。1958年生まれの太郎は北海道大学大学院教授中央大学法学部教授。

晩年は多摩市の自宅(東京都多摩市連光寺)で療養生活を送っている。この家はまだ残っているようなので、見学に行きたい。2007年(平成19年)7月18日老衰のため渋谷区の病院で死去。享年98。

長州という風土は、明治の元勲たちを生んだが、同時に宮本顕治のような筋金入りの共産主義者も生んでいる。長州には二つの筋があったのだ。戦前、戦中の監獄での拷問に耐えた12年間の宮本顕治を支えたのは、「覚悟」と「希望」であり、それがその後の長い政治生活の基盤であった。  

宮本顕治青春論 (1982年) (新日本新書)