超長寿者・蟹江ぎんの精神と肉体

 必要があって百寿者の本を集中して読むことにした。 まず、108歳で亡くなった双子の姉妹の妹「蟹江ぎん」。

 

蟹江ぎん「長生きは気力だがね」

蟹江ぎん(1892年明治25年)8月1日ーー2001年(平成13年)2月28日)は長寿者。

生まれた1892年(明治25年)は、芥川龍之介と同じで、日清戦争が始まる2年前だ。体の弱かった母のかわりに弟妹たちのめんどうを長女のきんとふたりでよくみた。22歳で蟹江園次郎に嫁ぎ、5人の子どもをもうけた。100歳を迎えるあたりから、きんさんぎんさんは国民的スーパーアイドルになった。 100歳到達時にでた『きんさんぎんさんの百歳まで生きんしゃい』(小学館)で、この長寿者の日常と精神がわかる。毎朝新聞を丹念に読む。座右の銘は「日々是好日」。歩くのが速い。毎朝「般若心経」を唱え「ナムマンダブ、ナンマンダブ。あろがとうごぜえます」と祈る。以下、ぎんさんの語録から。

 「うちん中でジッとしとると体がくさってしまうでぇ」「あんまり人のいうこと聞くかん。人のいうことにハイ、ハイばかしいうとったら、気力がのうなる」「顏の皺は増えても、心に皺を生やしちゃ、世の中がおもしろうのうなるでにゃあの」「女の子は、よそのさまにもろうてもらわないかんでしょ。だから厳しくせにゃならん」「戦争はな、どんな理由があってもしてはいかん。あんなとろくちゃあ(ばかばかしい)ことにお金をいっぱい使って、なんの得にもならん。戦争は絶対反対だ」「くだらんなァ、もっと、わしが感心する質問をせえ」「テレビの取材がにゃあと、ちいっと寂しくなるときもある」、、、、、。

こうやって並べてみると、「寅さん」のしみじみとした名言とあい通じるものがある。庶民が身に着けた生き方の哲学と知恵が込められている。それが人気の源でもあった。

それから17年後、きん・ぎんが亡くなった後、主治医と解剖医(ぎんさんの解剖を行った)の二人が書いた『きんさんぎんさんが丈夫で長生きできたワケ』(あけび書房)では、二人を肉体面から分析している。ぎんさんの肉体年齢は20歳、30歳、40歳若いといってもよいと解剖医は驚いている。1992年、ぎんさんは身長145cm、体重36キロだったが、最晩年は132㎝と縮んでいる。さかなとお茶が好き。腹八分、家族で食卓を囲む。学ぶのが好き。ぎんさんの信念は「人間は足から死ぬ」である。「長生きは気力だがね!」が口ぐせだった。

この本には、長寿者の共通項が並んでいる。長寿者の性格は、のんき、ほがらか、明るい、くよくよしない、よい人生を過ごしたと思っている。その反面、几帳面、仕事熱心、独立心がある。男女とも依存心が少ない。明治時代の平均寿命は40歳半ばから50歳だった。百寿者は、2007年に3万人を超え、現在では7万人。百寿者のうち105歳以上は超長寿者と呼ぶが、2002年850人、2007年1300人。超長寿者の壁は高い。2008年時点では百寿者の出現率は1位沖縄(10万人のうち60人超)、2位島根、3位高知である。

ぎんさんは108歳で老衰死であった。1992年時点で死因のうち「老衰」は6位となっているが、直近のデータでは3位と増えてきた。畳の上で家族に見守られながら天寿を全うする死である。超高齢社会は、老衰死が増える時代である。

きんさんぎんさんの百歳まで生きんしゃい

きんさんぎんさんの百歳まで生きんしゃい

 
きんさんぎんさんが丈夫で長生きできたワケ

きんさんぎんさんが丈夫で長生きできたワケ

 

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「名言との対話」7月20日有島一郎「すべてを使い果たし燃え尽くして、いつ死が訪れようと、悔いがなく迎えられるようにしたい」

有島 一郎(ありしま いちろう、本名:大島 忠雄〈おおしま ただお〉、1916年3月1日 - 1987年7月20日)は、日本俳優

 俳優を志したが、なかなかうだつがあがらない。「なんだか変なものを持っている不思議な役者」といわれ、戦争で「ムーランルージュに男優が減ってきた頃、丙種合格で体が弱い彼はしだいに起用されるようになった。22歳で「今年、著しい進境を見せたものに有島一郎がいる」と本に書かれ、感動する。しかし回ってくる役は老人の役」ばかりだった。芸名の有島一郎は、心酔してた有島武郎からとった。

有島一郎一座に始まり、小夜福子一座、劇団たんぽぽ、劇団空気座を経て、1947年31歳、松竹大船制作所、経て39歳東宝に移籍。1955年から1975年あたりまで、40代から50代は油がのりきった時期だ。このあたりの有島一郎の映画やテレビドラマは私もよくみている。とぼけた味の名優だった。喜劇俳優だったが、シリアスな演技もできた。

ミニ文化勲章ともいうべき紫綬褒章を1982年66歳でもらっている。「多年俳優として芸道に精進し優れた演技を示してよく演劇界の発展に寄与し事績まことに著明であるによって」表彰された。

 1985年69歳のときに発刊した『ピエロの素顔』という自叙伝では、「私」ではなく、主人公は「彼」であった。「序」では、自らを「今だに光輝いているスターではなく、まるでスターダストのように細々と光っている六十代になった老優である」と自らを語っている。この本の終わりには「筋書きのない人生の芝居が開幕されてから、いろいろな喜怒哀楽を」演じ続けていくことだろうと書いている。輝く星のスターではなく、宇宙の塵のようなスターダストおようにほそぼそと光続けようと誓っている。この本を刊行した2年後、彼はこの世を去った。彼の演技を知るものにとっては、細々とではあるが、その光は届いている。

ピエロの素顔

ピエロの素顔