国立西洋美術館の「松方コレクション展」。
松方幸次郎は、「絵はわからない」と言っていたが、「本物の西洋美術を日本の画家に集めてみせてやる」と志を語っている。
松方社長の川崎造船所は第一次大戦での先行投資で莫大な利益をあげる。その資金を使って、10年で3000点の大コレクションとなる。川崎造船所が金融不安で経営不振になり、1000点を売り立て。ロンドンの火災で900点を焼失。1959年に接収していたフランス政府から美術館建設を条件として寄贈され、国立西洋美術館が開館。2019年は松方コレクション構想が始まって100周年にあたる。
松方コレクションは3000点。フランスから買い戻した浮世絵8000点を加えると、1万点を超える規模。これは1916年から1927年までのわずか10年ほどの期間。作品160点と歴史資料。時代の波に翻弄された松方コレクションの100年におよぶ軌跡をたどる企画展。国立西洋美術館開館60周年記念企画。
莫大な利益をあげたとき、本物の西洋美術を集めた美術館を建設する夢を持ったことが、物語の始まりだった。そうでなければ、その利益はいつの間にか無くなっていただろう。夢、構想、志が大事だという教訓だ。
1966年生。1875年政府高官となった父・松方正義を追って上京。1883年、大学予備門を退学処分。1884年、アメリカラトガース大学に留学。イエール大学に編入。1890年、イエール大学で民法の博士号取得後、欧州を周遊して帰国。1891年、父の総理就任で秘書官。1896年、川崎造船所初代社長。1898年、結婚。1908年、神戸商業会議所会頭。1912年、衆議院議員。1917年、第一次大戦で莫大な利益を得る。1919年、美術館設立構想が始動。1928年、川崎造船所経営不振で辞意。1936年、衆議院選選挙に勝利し以降3期連続当選。1946年、公職追放。1950年、死去。1959年、国立西洋美術館開館。西洋美術館は、今年2019年で開館60周年。
松方コレクションの歴史。
1919年、共楽美術館設計図が日本到着。黒田清輝、バーナード・リーチらが美術館設立構想を話し合う。日本への作品輸送開始。1920年、ロダン「地獄の門」を発注。」1923年、ハンセン・コレクションを購入。1928年以降1935年まで、金融不安で川崎造船所の経営不振で美術品を売り立てる。1939年、ロンドンの倉庫の950点が火災で焼失。1940年、パリのロダン美術館に保管中の作品が疎開。1944年、「敵国人財産」として松方コレクションをフランス政府が接収。1951年、サンフランシスコ講和会議出席中の吉田茂首相が作品の返還を申し入れ。1955年、ル。コルビュジュとの設計契約成立。1959年、フランス政府から375点が返却される。6月10日に開館。松方コレクションの始めた1919年から今年で100周年。
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午前:大学で仕事。
午後:立川で所用。カフェにて一句。
「ペンすべる サイフォンゆらぐ 夏のカフェ」
夜:湯島の「ビストロ」で中津の高校同級会。
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「名言との対話」8月1日。コラソン・アキノ「もう誰が大統領になっても民主化は必然的に実現するでしょう。この状況で大統領一人の命を守るため、この貧しい国の予算を警護につぎ込む必要がありますか?」
コラソン・アキノ(Corazón Aquino, 1933年1月25日 - 2009年8月1日)は、フィリピン共和国第11代大統領(在職1986年 - 1992年)。
祖先は福建籍の客家である。1955年に22歳にしてタルラック州コンセプション市長のニイノ・アキノと結婚した。独裁体制を敷いたフェルディナンド・マルコス大統領時代、国民に広く人気があったニイノ・アキノは、マルコス政権にとっての脅威であり国外追放されていたが、追放先のアメリカ合衆国から帰国した際、マニラ国際空港で暗殺された。ニノイの死後、エドゥサ革命によりマルコス政権は崩壊し、ベニグノの妻コラソン・アキノ(コリー)が野党統一候補として選挙に出て、フィリピン大統領に就任し、1992年までつとめた。
暗殺された政治家をあげてみる。アメリカではリンカーン大統領、ジョン・F・ケメディ。インドでは、マハトマ・ガンディー、インディラ・ガンディ、ラジーヴ・ガンディー。パキスタンでは、ベーナズィール・ブット。韓国では朴正熙。日本では、明治以降では大久保利通、伊藤博文、原敬、浜口雄幸、犬養毅、斎藤実、高橋是清など。
金解禁などで剛腕を発揮した浜口雄幸首相は、東京駅で凶弾に倒れた時、「男子の本懐」との言葉を発している。同じく東京駅で刺された原敬首相は、暗殺も覚悟していたという。近年では郵政民営化をめぐる総選挙の時、小泉純一郎首相は「殺されたっていい」と発言している。
コラソン・アキノは「大統領の警護がこんなに手薄で大丈夫ですか?」と質問された。その時、「私はフィリピンの民主化を成し遂げるために大統領選に出馬し当選しました。民主化はフィリピン国民の一致した揺るぎない念願です。アキノがいなくてもフィリピンの民主化が挫折することはないでしょう」と答え、そして冒頭の言葉が続く。決然とした覚悟を感じる言葉だ。