島根県松江:小泉八雲記念館。知研宮島(中国四国)の合宿で小泉凡先生の素晴らしい講演。大花火大会を堪能。

出雲縁結び空港着。

小泉八雲記念館。
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知的生産の技術研究会の宮島(中国四国)の合宿。

小泉凡先生(小泉八雲記念館館長)の講演。小泉八雲ラフカディオ・ハーン)の曽孫。テーマは「小泉八雲が愛した神々の国の首都・松江。オープンマインドの航跡を追って」。

前半は、小泉八雲の生涯を説明。
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後半。

・子供塾:スーパー減るんさん講座。五感を使った教育。全員が怪談を語れるようになった。

・ミステリーツアー・ゴーストツアー:夜歩く。10年で316日、5112人が参加。今では県外者が7割以上。焼津、彦根などでもゴーストツアー。ダブリン。ニューオリンズアイルランドは妖精。

・地域の不思議文化の発掘と発信。松江は怪談のふるさと。

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珍しい「生きている記念館」。館長のロールモデル。「越境」。人と人との繋がり、縁が歴史を作ルことを理解。坂本九想い出館もそうだが、ファンの募金でできた記念館というところに価値がある。

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懇親会では、小泉先生の隣り。日航アテネ支店長だった西村六さんら共通の知人の話題も。

宍道湖の湖畔での花火大会。中国地方最大の花火。若い人が多い。

有料の最前列で花火を堪能。皆大満足。
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野津旅館で2次会。

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「名言との対話」8月3日。ソルジェニーツィン「貧困より恐ろしいものーーそれは精神の堕落」

 アレクサンドル・イサーエヴィチ・ソルジェニーツィン1918年12月11日 - 2008年8月3日)は、ソビエト連邦作家劇作家歴史家

ロシア革命の直後の1918年、ソ連・南ロシアのキスロヴォツクに生まれた。砲兵中隊長だった対独戦中のスターリン時代の1945年、思想的理由で逮捕され、強制収容所生活を送る。フルシチョフ時代の1962年、その経験をもとに描いた『イワン・デニーソヴィチの一日』を発表し世界的名声を得る。ブレジネフ時代の1970年ノーベル文学賞受賞。1973年、『収容所群島』第1巻をパリで出版、ソ連当局の批判を受け、国家反逆罪で1974年に国外追放となり、アメリに移住した。ゴルバチョフ時代の1990年に市民権が回復され、『収容所群島』に対して国家賞が授与された。ソ連崩壊後のロシアとなったエリツィン時代の1994年、市民権が回復すると喜んで20年ぶりにロシアに家族と一緒に帰国した。

以下、代表的著作を概観してみよう。

イワン・デニーソヴィチの一日』。

スターリン暗黒時代の悲惨きわまる強制収容所の一日を初めてリアルに、しかも時には温もりをこめて描き、ソ連文学界にロシア文学の伝統をよみがえらせた。フルシチョフ時代の1962年に発表。大勢の元囚人たちが、自分の経験をソルジェニーツィンに送り、それが『収容所群島』の材料となった。

収容所群島』。257人の囚人の書簡、回想、物語、そして作者個人の経験にもとづいた作品。ロシア革命直後の1918年から、そして1922年から始まるスターリン時代からスターリン没後の1956年までのソ連の抑圧の記録である。

『マトリョーナの家』。服役後に住まわされた村での記憶にもとづいて、ロシア女性の悲劇的な運命と純粋さと美しさを描いた作品。

ガン病棟』。フルシチョフ時代の1954年にタシケントガン病棟で受けた治療体験にもとづいて書かれた作品。

煉獄のなかで』。フルシチョフ時代の1955~1958年に書かれた。知識人が収容される研究所で働いていたときの思い出にもとづいた作品。

 1990年9月25日にはソ連最高会議ゴルバチョフ大統領が『甦れ、わがロシアよ~私なりの改革への提言』を2回読んだと告白し、内容を絶賛した。

1994年エリツィン大統領と面会した際に自分が見聞した地方の窮状を伝え、急速な経済自由化に警鐘を鳴らしたが、この提言は聞き入れられずソルジェニーツィンエリツィンに失望する。

2008年プーチン首相は遺族への弔電で、「ソルジェニーツィン氏の逝去は全ロシアにとって大きな損失だ。彼の著述と社会活動、長く困難だった人生の歩みは、人々と祖国、自由の理想、公正、人道主義に対する真の献身的行為の見本であり続けるだろう」と述べた。

以上にみるように、ソ連とロシアの指導者たちとの縁は深い。

投獄から国外追放までの戦いを描いた『仔牛が樫の木に角突いたーーソルジェニツィン自伝』の中で、流刑地や収容所で、頭の中で一作づつ完成しながら、暗記し、反復するという方法でそれらを秘密裡に保つ努力をしていたという記述には驚かされた。自分の作品に、20年、30年、50年も生き続けて欲しいと願った彼を慰めたのは「すべてはうつろい過ぎ、真実だけが残る!」などロシアのことわざだった。「災難が訪れたら、 それを厭うな」にも勇気づけられた。「災難が自由の扉を開くこともある!」。

死体同然の母国をラーゲリの知識で射抜くこう、ただし、向こう側からと考えていた。彼の放った矢は鉄のカーテンを突き破ったのだ。

「民主主義は高潔な美徳でなく、圧政を避けるためのもの。一人の暴君が、多数の暴君になることがある。選挙では内容なき量が、内容ある質に勝利する時があり、多数が間違うことがあり、道徳的なものは敗北し易い。政党間の争いは理念なき権力の獲得となり、国民の利害は、政党の影に隠れてしまう」と、西側の自由主義体制にも批判的だった。

 「貧困より恐ろしいもの―それは精神の堕落」であるという言葉は、ロシアの急速な自由化への警鐘であった。ロシアの団結の源は「精神」にあり、精神的な支えとしてのロシア正教に期待をかけていたのだ。 ロシア正教を基盤としたロシア独自の社会の構築が希望だった。近年、ロシア正教の力が増してきたという。何をもって国を束ねていくのか。大国を束ねるのは容易ではない。ソルジェニツィンの洞察に注目して推移をみることにしたい。

 

 

 

 

 

ソ連共産党書記長。スターリン。1922-1953年。マレンコフ1953年。フルシチョフ1953-1964年。ブレジネフ1964-1982年。アンドローポフ1982-1984年。チェルネンコ1984-1985年。ゴルバチョフ1985-1991年。

ロシア大統領。エリツィン1991-1999年。プーチン1991-2008年。メドヴェージェフ2008-2012年。プーチン2012-現在。