久しぶりに大学に出勤。

久しぶりの大学。銀行関係のメディア用の原稿を完成させて送る。秘書と相談。

 八木さんに電話。ライフワークの小説を本日入手する予定とか。復活!

 ある雑誌社の社長から『平成時代の366名言集』について、「これだけの人物のこれだけの言葉を集められ、ていねいに解説を加えられることは、大変なご努力であったろうと拝察します。楽しみに拝読させていただきます」との嬉しい葉書をいただいた。

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ジム:ウオーキング30分。筋トレ30分。ストレッチ15分。

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 夜は、「名言との対話」で書き残していた「ソルジェニーツィン」にとり組んだ。ソ連・ロシアのこの偉大な作家は奥が深くて難しかったが、スターリンからエリツインまでの指導者たちの名前とイメージを使い、彼らとの関係を主眼に置こうというアイデアが生まれてから、書くべき内容がようやくまとまった。物語、ストーリーが思い浮かんだら作品ができあがる。

8月3日。 ソルジェニーツィン「貧困より恐ろしいものーーそれは精神の堕落」

アレクサンドル・イサーエヴィチ・ソルジェニーツィン(1918年12月11日 - 2008年8月3日)は、ソ連・ロシアの作家、劇作家、歴史家。

ロシア革命の直後の1918年、ソ連・南ロシアのキスロヴォツクに生まれた。砲兵中隊長だった対独戦中のスターリン時代の1945年、思想的理由で逮捕され、強制収容所生活を送る。フルシチョフ時代の1962年、その経験をもとに描いた『イワン・デニーソヴィチの一日』を発表し世界的名声を得る。ブレジネフ時代の1970年ノーベル文学賞受賞。1973年、『収容所群島』第1巻をパリで出版、ソ連当局の批判を受け、国家反逆罪で1974年に国外追放となり、アメリカに移住した。ゴルバチョフ時代の1990年に市民権が回復され、『収容所群島』に対して国家賞が授与された。ソ連崩壊後のロシアとなったエリツィン時代の1994年、市民権が回復すると喜んで20年ぶりにロシアに家族と一緒に帰国した。

以下、代表的著作を概観してみよう。
イワン・デニーソヴィチの一日』。スターリン暗黒時代の悲惨きわまる強制収容所の一日を初めてリアルに、しかも時には温もりをこめて描き、ソ連文学界にロシア文学の伝統をよみがえらせた。フルシチョフ時代の1962年に発表。大勢の元囚人たちが、自分の経験をソルジェニーツィンに送り、それが『収容所群島』の材料となった。
収容所群島』。257人の囚人の書簡、回想、物語、そして作者個人の経験にもとづいた作品。ロシア革命直後の1918年から、そして1922年から始まるスターリン時代からスターリン没後の1956年までのソ連の抑圧の記録。
『マトリョーナの家』。服役後に住まわされた村での記憶にもとづいて、ロシア女性の悲劇的な運命と純粋さと美しさを描いた作品。
ガン病棟』。フルシチョフ時代の1954年にタシケントガン病棟で受けた治療体験にもとづいて書かれた作品。
煉獄のなかで』。フルシチョフ時代の1955~1958年に書かれた。知識人が収容される研究所で働いていたときの思い出にもとづいた作品。

1990年9月25日にはソ連最高会議でゴルバチョフ大統領が『甦れ、わがロシアよ~私なりの改革への提言』を2回読んだと告白し、内容を絶賛した。1994年エリツィン大統領と面会した際に自分が見聞した地方の窮状を伝え、急速な経済自由化に警鐘を鳴らしたが、この提言は聞き入れられずソルジェニーツィンエリツィンに失望する。2008年プーチン首相は遺族への弔電で、「ソルジェニーツィン氏の逝去は全ロシアにとって大きな損失だ。彼の著述と社会活動、長く困難だった人生の歩みは、人々と祖国、自由の理想、公正、人道主義に対する真の献身的行為の見本であり続けるだろう」と述べた。以上にみるように、ソ連とロシアの指導者たちとの縁は深い。

収容所群島』が一世を風靡したとき、私も目を通した記憶はある。
投獄から国外追放までの戦いを描いた『仔牛が樫の木に角突いたーーソルジェニツィン自伝』を今回読んだが、流刑地や収容所で、頭の中で一作づつ完成しながら、暗記し、反復するという方法でそれらを秘密裡に保つ努力をしていたという記述には驚かされた。自分の作品に、20年、30年、50年も生き続けて欲しいと願った彼を慰めたのは「すべてはうつろい過ぎ、真実だけが残る!」などロシアのことわざだった。「災難が訪れたら、 それを厭うな」にも勇気づけられた。「災難が自由の扉を開くこともある!」のだ。死体同然の母国をラーゲリ(収容所)の知識で射抜こう、ただし、向こう側からと考えていた彼の放った矢は鉄のカーテンを突き破った。

「民主主義は高潔な美徳でなく、圧政を避けるためのもの。一人の暴君が、多数の暴君になることがある。選挙では内容なき量が、内容ある質に勝利する時があり、多数が間違うことがあり、道徳的なものは敗北し易い。政党間の争いは理念なき権力の獲得となり、国民の利害は、政党の影に隠れてしまう」と、西側の自由主義体制にも批判的だった。

「貧困より恐ろしいもの―それは精神の堕落」であるという言葉は、ロシアの急速な自由化への警鐘であった。ロシアの団結の源は「精神」にあり、精神的な支えとしてのロシア正教に期待をかけていた。 ロシア正教を基盤としたロシア独自の社会の構築が希望だった。近年、ロシア正教の力が増してきたという。何をもって国を束ねていくのか。大国を束ねるのは容易ではない。ソルジェニーツィンの深い洞察に注目して推移をみることにしたい。

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「名言との対話」。8月19日。森岡賢一郎「僕は君といる時が一番しあわせなんだ」

森岡 賢一郎(もりおか けんいちろう、1934年3月4日 - 2018年8月19日)は、日本の作曲家アレンジャー

指揮を平井哲三郎高階正光ピアノポール・ヴィノグラドフ作曲團伊玖磨にそれぞれ師事した。森岡作曲家、編曲家、音楽プロデューサー、指揮者、ピアニストと八面六臂の活躍をした。

菅原洋一の「今日でお別れ」、ジャッキー吉川とブルー・コメッツの「ブルー・シャトウ」、小柳ルミ子の「瀬戸の花嫁」、加山雄三の「君といつまでも」、伊東ゆかりの「小指の想い出」、畑中葉子&平尾昌晃の「カナダからの手紙」、布施明の「霧の摩周湖」、天地真理の「水色の恋」、園まりの「逢いたくて逢いたくて」、森進一の「港町ブルース」、内山田洋とクール・ファイブの「そして、神戸」、郷ひろみの「よろしく哀愁」など、ジャンルを越えて昭和歌謡史を彩る名曲の数々を手掛けた。

1965年の加山雄三の「君といつまでも」(岩谷時子作詞、弾厚作作曲)は、300万枚を超える大ヒットで、翌年のレコード大賞特別賞を受賞した作品だが、「岩谷さんがロマンチックな歌詞をつけ、豪華なオーケストラと合唱を入れた森岡賢一郎さんの編曲も実に素晴らしい。スタジオのマイクの前で、僕は感極まっていた。『しあわせだなあ』。間奏でふとつぶやいたひとこを、ディレクターがキャッチし、即座にそれを入れようということになった」と加山は後に語っている。この歌は私も何度歌ったか知れない、カラオケで友人が歌うの何度も聞いた名曲だ。加山雄三サウンドの作曲・弾厚作、作詞・岩谷時子、編曲・森岡賢一郎というゴールデントリオの誕生となった。

編曲とは何だろうか。作曲とはボーカルが歌う音楽の中核である主旋律(メロディ)をつくることである。編曲とはメロディ以外のギターやドラムやベースなどの楽器を用いて曲の雰囲気を盛り上げることだ。歌謡番組でバックのオーケストラが演奏する様々の楽器の旋律をメロディに沿ってアレンジするのが編曲と考えるとわかりやすい。編曲次第でメロディは様々の表情を持つことになる。この編曲の名人が森岡だった。加山雄三森岡賢一郎の編曲に感動してもらした言葉が、歌詞に取り入れられて、人々の記憶に残る名曲の代名詞のセリフになったのである。森岡賢一郎の編曲には人を感動させる力があった。