緒方貞子死去の報が入った。享年88。2013年1月8日のブログを掲載し哀悼の意を表したい。
「緒方貞子という生き方」という本がある。
それほど、この人の働く姿には魅力があり、頭が下がる思いをする。
緒方貞子(1927年生。現在85歳)は、1991年から国連難民高等弁務官としてクルド、サラエボ、ルワンダなど長い間世界の難民支援活動に取り組み、その後2002年にはアフガン復興支援国際会議の共同議長、そして日本の国際協力の総本山であるJICA(国際協力機構)の理事長をつい最近まで長く務めた人である。
国連難民高等弁務官に就任したのは63歳の時である。
聖心女子大卒業後、ジョージタウン大学で修士号、カリフォルニア大学バークレー校で博士号を取得、50歳前の76年から国連日本政府代表部公使、特命全権公使。上智大学教授として外国語学部長などを歴任している。
国連難民高等弁務官以降の緒方貞子の足跡を追うと、難問と大問題との格闘の歴史であるとの感を深くする。
あらゆる国々の首相や大臣、あらゆる機関のトップ、こういう人たちと毎日会いつづけ、世界の様々の機関や大学での講演を重ね、現地で難民と接していく。、国際紛争や内紛で生じた数百万人の難民を保護するために、問題を解決しようと時間と労力と人脈を駆使していく姿は神々しい。
国連難民高等弁務官事務所の本部はスイスのジュネーブにあり、職員総数は2000人。4分の3は現地で活動している。任務は、保護と救済である。
2003年(76歳)から2012年3月末まで緒方貞子がトップをつとめていたJICAは1.2兆円の規模を持つ日本の重要な世界貢献の本拠である。政府開発援助(ODA)の二国間援助の中心的役割を果たしている。2011年の東日本大震災では世界各国から援助の手が差し伸べられたが、それは緒方JICAの果してきた世界への影響の一端を示すものだと思う。そのJICAに私も少しだが関与していることに誇りも感じる。
緒方貞子は「小さな巨人」とも言われている。天命に沿って使命感を持って60代から10単位という長い時間を問題解決に捧げ、少しづつ前進していく姿は神々しい。
以下、「私の仕事--国連難民高等弁務官の十年と平和の構築」(緒方貞子・草思社)から。
- 中央からの柔軟な調整と、現地における実施機関の対応能力の強化が、問題解決の鍵か。
- 経済制裁は、弱い人を苦しめる。
- 日本は、経済大国から人道大国になってほしい。
- 体系的に理解するというのは、答えを持っているということではなく、何が問題なのか質問ができる、ということではないでしょうか。
- 湾岸戦争後、国連平和維持協力法を成立させ、国際協調主義的な姿勢を示し、アンゴラ、カンボジア、モザンビーク、ゴラン高原、リワンダ、などに自衛隊を派遣した。その後、90年代の不況によて日本の指導者層は内向きになっていった。
- 人間は仕事を通して成長していかなければなりません。その鍵となるのは好奇心です。常に問題を求め、積極的に疑問を出していく心と頭が必要なのです。
- 日本人は意識的に世界各地にある厳しい状況に関心を寄せ、身を置く努力をしなければならないのではないでしょうか。
- コンセンサスというのは、自然に形成されるものではなく、強力なリーダーシップで引っ張って初めて、形になるものなのです。
- 国の内外を問わず、自分で歩いてみることを、若い世代にすすめます。
曽祖父は犬養毅、祖父は外相、母は犬養道子や安藤和津の従妹。日銀理事だった夫は、緒方竹虎の三男。竹虎の祖父は緒方洪庵と義兄弟の盟を結びその姓を名乗った。名門の出である。貴種性が宿っているのだろう。
国連難民高等弁務官就任以降の活躍に、世界各国からの感謝が栄典という形で贈られている。こうやって並べてみると、日本の文化功労者や文化勲章の光も色が褪せる。
1993年 : イタリア金の鳩平和賞。1994年 : 自由賞(自由主義インターナショナルより)。1995年 : フィラデルフィア自由賞1997年 : マグサイサイ賞平和・国際理解部門。2001年 : 文化功労者。2001年 : インディラ・ガンディー賞。2001年 : ドイツ連邦共和国功労勲章大功労十字章。2001年 : レジオンドヌール勲章コマンドール。2001年 : イタリア共和国功労勲章カバリエーレ大十字。2001年 : スウェーデン北極星勲章コマンデール第1等級章。2001年 : ロシア友好勲章。2002年 : フルブライト賞。2003年 : 文化勲章。2004年 : 東京都名誉都民。2005年 : 世界市民賞。2008年 : オラニエ・ナッソー勲章グラントフィシエ章。2009年 : 第3回後藤新平賞(後藤新平の会主催)。2011年 : 聖マイケル・聖ジョージ勲章デーム・グランド・クロス(GCMG)。2011年 : キルギス共和国ダナケル勲章。2012年 : 地球市民賞(大西洋評議会)。
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朝:ヨガ教室で1時間。
大学:橘川、環境省の石川さん、松本先生。「未来学研究会」。教育と環境。インテリジェントツアー。循環共生圏。情報センター。データ。次世代の理解。講座。5号館。会員組織。国際感覚。客員。ドイツのシュタットベルケ運動。フィンランド。五條堀孝先生。未来フェス。老人フェス。イタリア「記憶の銀行」。地域の記憶。映像アーカイブ。谷川塾。800万。
多摩センターの京王プラザホテルで橘川、石川さんと食事。
ジム:ウオーキング40分4㎞。筋トレ。2時間コース。
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「名言との対話」10月29日。マキノ雅弘「おもろなきゃあかんで」
マキノ 雅弘(マキノ まさひろ、1908年2月29日 - 1993年10月29日)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサー、録音技師、俳優、実業家である。
日本映画の父・牧野省三の長男。子役、俳優を経て、1927年に18歳で監督デビューする。早撮りの名人で、映画一本を10日程度で完成させるという早業の持ち主だった。
時代劇、現代劇、何でも撮った。完全主義の作家型ではなく、間に合わせの達人である職人型の監督だった。頼まれて各社の映画をつくり続けた。1926年から1972年までの間に、260余本の監督作品を生んでいる。世界ではウイリアム・ボーダインが44年間で182本という記録があるが、世界の映画史でも特筆すべき記録だろう。世界一多作の映画監督かもしれない。代表作は、『殺陣師段平』、東宝の「次郎長三国志」シリーズ、東映の任侠やくざシリーズ『日本侠客伝』などで、俳優の高倉健や藤純子を育てた。俳優の経験もあり、演出の技巧は巧みだった。
「1 スジ、2 ヌケ、3 ドウサ、というのが父の映画憲法だった。スジとは筋すなわちストーリーの面白さ、ヌケとは画面がきれいにぬけていること、ドウサとは動作で、これが、この順序通りに、父にとっては映画の三原則にほかならなかった」。自伝『映画渡世・天の巻』には以上のような述懐がある。私とも仙台で縁のあった甥の俳優・津川雅彦は、マキノ雅彦名義で映画監督として活動し、「寝ずの番」(2006年)、「次郎長三国志」(2008年)、「旭山動物園物語 ペンギンが空をとぶ」(2009年)を作っている。マキノの遺志を継いだのだろう。映画は三代にわたる事業だった。
マキノ雅弘は野球中継をテレビで見ていて、「ちょっと眠るわ」といってそのまま眠るように息をひきとった。85歳、幸福な死に方だった。
映画は「見世物」だから、「おもろなきゃあかんで」が」口ぐせだった。 職人監督・マキノ雅弘は芸術至上主義ではなく、「早い安い面白い第一主義」を標榜していた。「おもろなきゃあかんで」は、その神髄を一言であらわしている。
マキノ雅弘の世界―映画的な、あまりに映画的な (ワイズ出版映画文庫)
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