田端文士村会館「芥川龍之介の生と死」展。すみだ北斎美術館「北斎視角のマジック」展。表参道の「未来フェス」忘年会。

田端文士村会館で開催中の「芥川龍之介の生と死」展。充実した企画展だ。

親友の室生犀星は、田端文士村を「賑やかな詩のみやこ」といい、その「詩のみやこの王様は芥川龍之介」と語っている。龍之介という名前は、生年月日時が辰年辰月辰日辰刻だったことによる。芥川の実母は龍之介を産んだ後に狂人となった。芥川は「ぼんやりとした不安」によって自殺したとされるが、その一因は発狂の予感に対する恐怖心にあったかもしれない。「何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」「畢竟気違ひの子だったのであろう」。

以下、この企画展の章立て。「芥川龍之介の死生観」「芥川龍之介谷崎潤一郎の文学論争」「芥川龍之介の晩年と死」「芥川龍之介の死と室生犀星」「芥川龍之介の死と堀辰雄」「芥川龍之介の死と家族」「芥川龍之介の死を語る文壇仲間」「現代に生きる芥川龍之介」。詳細は別途書く。

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 「文豪とアルケミスト」という文豪シュミレーションゲームの芥川龍之介

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 両国の江戸東京博物館を訪問するが、休館だったのは残念。

 思い直して「すみだ北斎美術館」を訪ねる。2回目。没後170年「北斎視角のマジック」展。欧米系の外国人が多い。長野県小渕沢の北斎館(画狂人葛飾北斎の肉筆画美術館)所蔵の120点が展示されていた。北斎は83歳から高井鴻山(1806-1883)宅に毎年のように4回滞在している。詳細は別途書く。

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表参道で降りて橘川幸夫さんを中心とする忘年会に参加。一般社団未来フェスの前田さ(右)さん、高野さん(左)。平凡社の下中直人会長。放送作家の松岡昇、編集者の榎本統太、共創社会プロデューサーの坪田哲司、山崎純一郎らと今回知り合った。自分史の河野女史もいた。不思議な会だ。

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「名言との対話」12月28日。坪内寿夫「少数にしたら精鋭になるんや

坪内 寿夫(つぼうち ひさお、1914年9月4日 - 1999年12月28日)は日本実業家

満鉄、シベリア抑留を経て、戦後は映画館経営から始める。1953年、現在の新・来島ドック社長。1978年、佐世保重工業社長。 倒産寸前の企業を数多く再建させた手腕から、「再建王」と呼ばれた。  一代で造船・海洋を中心とした来島グループ(来島ドックグループ)とも呼ばれる180社を超える巨大企業群を作り上げ、「船舶王」「四国の大将」とも称された。

徹底した少数精鋭の「コスト削減」と「信賞必罰人事」だった。佐世保重工では460人の管理職を37人に減らした。230あった課を8に減らした。「少数にしたら精鋭になるんや」と組織改正をいっぺんにやった。そしてだんだんに上がっていくエスカレータ人事ではなく、タテに急上昇急下降する「エレベーター人事」 を断行した。

坪内は日本一の経営者になるという野心を持っていた。率先垂範し、質素にし、信用を得るという型の経営者を目指した。銀行、部下、お得意さんの信頼を得るために、給料、賞与はとらず、配当もいらない。ただ全株を持ってワンマンでやる。しかし日常生活は質素そのものだったから皆信用した。「坪内さんは政商ではなく、清商であった」と愛媛県知事加戸守行も語っている。珍しい経営者だ。

以下、『坪内寿夫対談集 夢つきることなし』(角川書店)から拾った坪内語録。 

「斜陽でも生き残ればいい会社になるわけです。現状打破をやって、少数精鋭でやれば、だいたい生き残れる」「泥をかぶって率先垂範するのが、経営者の務め」「幹部は少ないほうがいい。これは鉄則です」「社員に働く喜びを自覚さす教育が必要なんじゃ」「会社に入ってからが本当の勉強で、勉強してもらわんと勝てんのですわ」「だめな会社じゃから、みな欠陥がある。それを根気よく直していく」「率先垂範する以外にない」「誠意を示していく。そのためには自分を犠牲にしなくてはいかん」「成功するまで金を注ぎ込んでやるんじゃから、これは成功しますよ。、、個人財産があるからできる」四国国鉄を俺に任せれば5年で黒字にしてみせる」 

 この人物には作家たちが興味を持つようで、多くの小説の題材になっている。柴田錬三郎『大将』、落合信彦『戦い、いまだ終わらず』、高杉良『小説会社再建-太陽をつかむ男』、半村良『億単位の男』、青山淳平『夢は大衆にあり~小説・坪内寿夫』、佐伯正夫『坪内イズムの真実を今 再建人生ここにあり』。2018年にはホテル奥道後・壱湯の守内に、「奥道後坪内記念館」が開設されている。

精鋭を少数集める、そんなことはできるはずがない。やはり手持ちの駒を使うしかない。そのときは人を減らし、少人数で仕事をこなすようにする。そうすると精鋭になっていく。日本初の植民地・台湾を9年で黒字にした後藤新平も徹底した組織の簡素化と人員の大削減を断行している。私も似た経験がある。30代で上下二人でやっていた労務の仕事を若い私が上司から任されたことがある。一人ですべて判断しなくてならないから真剣になった。また40代になって経験不足の部下を多数抱えたことがある。このときは仕事を猛烈に増やして、それぞれを責任者にしたら、のんびりしていた部下たちも働きだした。公然の秘密である「率先垂範と少数精鋭」の坪内イズムには共感する。

夢つきることなし―坪内寿夫対談集

夢つきることなし―坪内寿夫対談集