「賽銭も 10パーセントを 添えて入れ」ーーー初詣の川柳

「賽銭も 10パーセントを 添えて入れ」

f:id:k-hisatune:20200101161431j:image

初詣でできた川柳。いつもは100円玉を入れるが、ふと思いついて10円玉を足して、家内安全を祈ってしまった。10円は消費税だ。もう一句「後ろから 見れば誰しも 善男女」。

 おみくじは「吉」だった。この神社では、吉と大吉が続くので、気分は悪くない。

「立ちよれば そでに なびきて 白萩の 花のか ゆらぐ 月の下かげ」

(時期をあやまらずはやくあらため進みてよし 人と人と互に力あわせてなすにはときときあり されどわるきことと知りつつ進むは悪し注意すべし)

旅行「さわりなしよろし」。商法「利益あれど少し」。学業「友より一層学べ」

 ---------------

正月休みは、計画の期間である。「2020年の計画」の原案をつくった。20枚もあるから、今年も大変だ。この原案を少しづつ修正を繰り返しながら、正案にしていくつもり。この作業も、もう40年か。

毎日書いている「名言との対話」は、2016年は「命日編」、2017年は「誕生日編」、2018年は「平成命日編」、2019年は「平成命日編2」と続いている。今年は、「戦後編」にしようかと思う。戦後はいつからか? 戦後はいつまでか? 昭和、平成、そして令和も戦後になるが、そこはゆるく考えようか。「平成命日編」は厳格に選んだため、しんどかったから、少しゆったりと人物に向かっていきたい。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 「名言との対話(戦後編)1月1日。今村明恒「災害予防のこと、一日も猶予すべきにあらず」

今村 明恒(いまむら あきつね、1870年6月14日明治3年5月16日) - 1948年1月1日)は日本地震学者

上山明博関東大震災を予知した二人の男」(産経新聞出版)を読んだ。関東大震災を予知できなかった男と予知した男と記録された二人の地震学者の信念に光を当てた優れたノンフィクションだ。2001年の東日本大震災の2年後、関東大震災から90年にあたる年に上梓した作品である。

 今村は1899年に津波は海底の地殻変動を原因とする説を提唱した。 1905年に、今後50年以内に東京での大地震が発生すること、その場合には圧死者3000人、火災が発生すると死者10万人以上と警告し、震災対策をせまる記事を雑誌『太陽』に寄稿した。今村の上司の大森房吉教授は、関東大震災が起こるとすれば、相模湾震源と予知していたが、世間が動揺することを恐れ、これを浮説として否定したため、今村は「ほら吹き」と批判される。大森はノーベル賞がほぼ内定していた学者で、「地震学の父」と呼ばれていた。一方の今村は二つ年下で、無給の助教授に甘んじていた。

関東大震災の前には、関東各地で地震が起こっている。芥川龍之介は鎌倉滞在中に、植物の異変をみて「天地異変」を予言している。 大森がシドニーに滞在していた時、東京で大地震が発生する。「来た! つに来た!」と今村は快哉する。安政の大地震以来68年ぶりの大地震だ。5万2千人余が焼死した。本所横綱町の被服廠跡では、火災旋風で3万8千人が焼死している。帝大教授の寺田寅彦が「天災は忘れたころにやってくる」という名言を吐いたのもこの時だ。

大森はシドニーから戻った死の間際に、山本権兵衛総理と帝都復興院総裁の後藤新平に提案する。復旧では再び壊滅的な損壊を被るから復興が大事だ。消防用水の確保、耐震基準の強化、道路拡幅と公園の整備、防災意識の啓蒙。後藤の復興政策は大森の献策が基礎になっていたのだ。

今村の警告が現実のものとなった後、関東大震災地震を予知した研究者として、今村は「地震の神様」と讃えられるようになった。1923年に亡くなった大森の後を継いで地震学講座の教授に昇進する。次の大地震南海地震と考え、1928年に南海地動研究所を私費で設立した。予想通り1944年に東南海地震、1946年に南海地震が発生した。そして津波被害を防ぐには小学校時代からの教育が重要と考えて『稲むらの火』の国定教科書への収載を訴え、実現させた。

今村の「災害予防」はもちろんだが、「地震の少ない西洋で発達した文明を、地震が多発する日本に移入するのは土台無理があるということさ」と田中館愛橘博士が語っているのは見逃せない。原発問題についても示唆に富む予言だと思う。

関東大震災を予知した二人の男 大森房吉と今村明恒