「企業博物館」の発見

日本は企業博物館が充実している国である。国内の博物館の20%を占める約1000館の企業博物館が活動している。博物館は5000館あるということになる。企業は現在の企業活動だけでなく、歴史遺産という貴重な情報を持っており、それを社内外で活用するための施設が企業博物館だ。企業内では、苦境に陥った時、業態変革を迫られた時には、企業の歴史を振り返るだろう。過去の歴史によって、未来を展望することができるから、企業博物館(企業ミュージアム)は貴重な経営資源であろう。その実態は多種多様だ。

帝国データバンク史料館が発行する「Muse」というPR誌には、シリーズで他の企業博物館の担当者インタビューや起業家(2010年1月号は相馬国光、2019年7月号は大原孫三郎)が紹介されていて読みごたえがある。以下、いくつかを紹介する。この「Muse」は全部みたい。

森永製菓史料室。日本で一番古いお菓子の会社だから「菓子業界」の歴史そのものでもある。社内報は第一級の企業資料だ。創業者は森永太一郎。出身地の佐賀県伊万里市民図書館には森永太一郎コーナーがある。

囲碁殿堂資料館。日本棋院創立者大倉喜七郎と第1回以後殿堂入りした本因坊算哲という人物が注目すべき人物だ。

東京で目についたものを挙げる。タニタ博物館。世界のカバン博物館(エース)。セイコーミュージアム野球殿堂博物館。カメラ博物館。丸美屋ミュージアム。凧の博物館。樫尾俊雄発明記念館(カシオ)。昭和ネオン高村看板ミュージアム。京王レールランド。代田記念館(ヤクルト)。、、、、。心躍る感じがする。

北海道のサッポロビール博物館や雪印メグミルクの酪農と乳の歴史館。秋田県TDK歴史館。静岡県のスズキ博物館。愛知県のノリタケの森、カゴメ記念館、トヨタ博物館三重県の御木本幸吉記念館。岐阜県の内藤記念くすり博物館。大阪府のまほうびん記念館、江崎記念館、イトーキ史料館。京都府の島津創業記念館、月桂冠大倉記念館、グンゼ博物苑。兵庫県竹中大工道具館ユニチカ記念館、揖保の糸資料館。岡山県の倉紡記念館。広島県マツダミュージアムお好み焼き博物館「ウッドエッグ」。福岡県のTOTO歴史資料館。佐賀県の中富記念くすり博物館。長崎県三菱重工業長崎造船所史料館。沖縄の琉球新報新聞博物館。、、、、、。

人物記念館も公的記念館を中心に900館を超えてきたので、今後は企業博物館というジャンルで創業者も追いかけることにしようか。昨日、第一弾として市ヶ谷の帝国データバンク史料館を訪問し、その方針が固まった。

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「名言との対話」1月25日。牧野伸顕私ならどうするということをなぜ、考えないのか」

牧野 伸顕(まきの のぶあき、1861年11月24日文久元年10月22日) - 1949年昭和24年)1月25日)は、日本政治家

11歳で岩倉遣欧使節団に参加し、そのままフィラデルフィアの中学に入学。帰国後開成学校(東京帝大)に入り、中退し外務省に入省する。ロンドン大使館、太政官などを経て黒田清隆首相秘書官、福井県知事、茨木県知事、文部次官。イタリア公使、オーストリア公使。第一次西園寺内閣の文部大臣。男爵。第二次西園寺内閣の農商務大臣。第一山本権兵衛内閣の外務大臣。官僚政治家、自由主義的政治姿勢、薩摩藩閥の一員という独自の位置を持った。第一大戦後のパリ講和会議の次席全権として采配をふるった。子爵。元老と内大臣の仲介者として後継首班の奏請に関与していく。内大臣。伯爵。2・26事件では英米派の代表として襲撃されるが無事だった。

父は大久保利通(次男)、娘婿は吉田茂、ひ孫は麻生太郎という系譜の中にある人物で、大臣などの要職は多かったが、不思議なことに首相には就任していない。しかし常に政治の中枢にいた。薩摩閥にありながらオールドリベラリストとも呼ばれる自由主義者でもあり、保守と進歩の均衡の中、政治と宮中の間に立つという独特の立ち位置の人である。

牧野の娘婿である吉田茂は、ワシントン大使館に赴任した。若き吉田は東京から届く電信を受け取り、すぐに大使に渡すという単調で意味のない仕事に嫌気がさし、自分のように有能な人間を大事な仕事に使わないのは日本の損失だととして、 外交官を辞めると岳父の牧野に手紙を書く。

「お前はなんという大馬鹿ものだ。我以外みな師なりという言葉を、お前は忘れたのかと叱責し、「大使よりも先にその電文を読むことができる立場にある。その廊下の間の何秒間で電文を見て、私ならどうするということをなぜ、考えないのか」と諭す。続けて「後で大使の行動を見て、自分の思ったことと違ったら、それがなぜかと考えてみる。そうやって勉強すればいいじゃないか。思ったとおりだったら、自分は大使並みだと喜べばいいじゃないか。こういう勉強ができる恵まれた立場にいるにもかかわらず、それを絶望したとは何事であるか」と返事をしている。

あまりできがよいとは言えなかった若い頃の私も、折にふれて上司たちから同じような教訓をもらってきた記憶がよみがえる。たとえば、役職者の重要会議に出す書類のコピーとりは、上司が読まさせて教育しようと考えてのことだ。たとえば、担当者として書類を書く時、どうせ上が直すだろうという安易な考えで気合を入れていないのを見破られれる。どうせ、上が考え、決めることだと安易に情報をあげるだけで済ませてしまっていて、「君なら、どう考えるか」と訊かれて返答に窮してしまう、、、。仕事というものは、上司というものは、ありがたいものだと思う。企業などの組織は実は学校だったのだとつくづく思う。

牧野伸顕は明治政府の立役者・大久保利通という父と、戦後日本を立ち上げた娘婿・吉田茂をつなぐ、重要人物であることは論を俟たない。明治新以降の人物や書物をみていると、この人の影を常に感じることになる。明確な像として結ばない、影の薄い印象の人だった。私が感心したのは、牧野伸顕という人物の仕事への取り組み方だ。

吉田茂とのエピソードでは、「自分ならどうするか」、常に回答を用意しようとする心構えの大事さを教えてくれる。そこで吉田が外務省を辞めていたら、戦後日本はどうなっただろうかと考える。池田勇人佐藤栄作へと続く吉田学校の人脈もなかったかもしれない。人は人によって育てられ、そして人を育てる。そういった人の流れが歴史を形づくっていくのだ。