「アンドレ・ジッドの日記」からーー勉強促進法の「知的方法」と「物質的方法」

 「アンドレ・ジッドの日記」を読了。ノーベル文学賞に輝いた作家。「狭き門」。 勉強促進法(M・Dが用いたもの)。24歳。

1:知的方法。

死が切迫していると考える。競争心。偉人との比較。財産は自由な勉強の資源。一番勉強した日を標準に。下らぬ書を読み敵意を感じること。

2:物質的方法

ものをほとんど食べない。手足をうんと暖かに保つ。あまり眠らない(7時間)。昔の作家の本を数行だけ読む、歩きながら構想する、立って書く。健康を保つ、かつて病気であったことが必要、芸術品は置かない、本は辞書だけ、政治には頭をつっこまない。

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「名言との対話」2月2日。江崎利一「学問に実地が伴えば、鬼に金棒であるが、実地に学問が伴えば、それこそ鬼に金棒以上のものであろう」

江崎 利一(えざき りいち、1882年明治15年12月23日 -1980年昭和55年2月2日)は日本実業家

江崎利一はグリコの創業者。日本の大菓子メーカー、森永、明治、グリコの創業者は佐賀県出身である。佐賀は明治維新時の近代技術の先駆者であり、司馬遼太郎が「佐賀藩ほどモダンな藩はない」と評価しのだが、それにしても不思議なことだ。

江崎は小学校卒の独学家である。商業、経営、販売、広告、製菓、栄養、心理学、気合術、能率、修養など読書は広範囲に及んだ。新聞雑誌を切り抜き、整理していて、いつも読んでいた。情報に敏感だった。講義録や雑誌を読み、人の話を聞くという勉強法の鬼であった。

 グリコーゲンとなって肝臓に貯蔵された動物澱粉は血液中に送られてエネルギー源となる。九州帝大の先生の「治療より予防!」という言葉にヒントを得て、育ち盛りの子どものための菓子にしようと考える。キャラメルとは違う栄養菓子だ。そして40前後の壮年になってから裸一貫で創業する。勤倹力行、不屈邁進、創意工夫の人で、独創的商品を次々と世に送り出した。

「一粒で300メートル」はキャッチコピーの歴史的名作だ。小さなオモチャ、豆玩具の「オマケ」には、軍艦、オートバイ、人形、コマ、ハーモニカ、七宝バッジ、豆顕微鏡、虫眼鏡、、、などをそろえた。豆文という広告宣伝も、川柳作家の岸本龍郎の「グリコガアルノデ オルスバン」などの豆文は評判になった。

戦後。オマケ付きグリコとビスコの二大商品で再建が軌道にのっている。ミルクから乳脂肪分やカゼインを除いた水溶液のホエーとアーモンドでキャラメルにした。「一粒で二度おいしい」で有名なアーモンドグリコの「ヒットなど。現在の基幹商品は、ポッキーとプリッツだ。ポッキーは世界30カ国で年間5億箱売れているという。

 小林一三「創意工夫に冨み、体験を生かし、これぞと確信したところに、どこまでも全力を傾注してかかる」と記している。

 「商売とは、まことにむずかしく、そしてふしぎなものだ。どんな小さなところに発展のカギがひそんで「いるかわからない。大切なのは、それをどう見つけ出し、どう生かすかということだろう」

孫の江崎勝久社長によれば、日本の経営学者で最初に創業者を高く評価してくれたのは野田一夫である。「エコノミスト」のインタビューで、現代のマーケッティングセオリー通りだと述べている。ここにも野田先生が出てきて驚いた。

51歳で財団法人母子健康協会を設立する。理事には吉岡弥生東京女子医科大学学頭)、顧問には加納治五郎、鈴木梅太郎などの著名人が並んでいる。江崎利一の実業人生を眺めると、大学の研究者、起業家、著名人など、人脈づくりに非常な才能を持っていたと感じる。その背景には、「学者や専門家によって研究された食糧や新栄養源を国民の体位向上のために、すみやかに企業家し、社会に安価に提供すること」はは実業家としての自分の使命としていたことがある。1980年、97歳で生涯を閉じた。

子どもの頃には私もアマケが楽しみでグリコのお菓子をよく手にしていたし、叔父さんがグリコにつとめており、よく菓子をもらったので、懐かしい。今でもプリッツは好物だ。

「知的生産の技術」研究会で活動を始めた30代の頃、ビジネスマンであった私は「知的実務家」という概念でインタビュー中心の本を仲間と書いたことがある。学者は実務に疎い、実務家は理論に弱い。その間をつなぐ人が重要になるだろうということで、自分たちは「知的実務家」を目指そうという趣旨だった。江崎利一は「学問と実地」という言葉で同じことをいっているようだ。さらに実地に学問が伴えば、鬼に金棒以上であると喝破している。江崎利一という実業の鬼は、大きな金棒を持つ偉人となった。

 

日本の企業家 12 江崎利一 菓子産業に新しい地平を拓いた天性のマーケター (PHP経営叢書)