多摩。品川。

 午前は、大学でひと仕事。午後は、品川の大学院で研究開発機構評議員会に多摩大総研所長として出席。

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「名言との対話」2月3日。蒲原有明「先生はいかん。あなたでいいや」

蒲原 有明(かんばら ありあけ、1875年明治8年)3月15日 - 1952年昭和27年)2月3日)は、日本詩人。

小学生の頃から文学書に関心を示す。一高入試に失敗し国民英学会に入り英文学に親しむ。ロッセティの影響下、抒情詩人として世に出る。処女歌集「草わかば」以降、西欧の詩と方法を日本語に移し入れる。その成果は「有明集」になる。この一巻により、日本近代詩の先駆者の栄誉を、「白羊宮」を書いた薄田泣菫と並び担う。画家の青木繁と親交を結ぶ。

新学社近代浪漫派文庫『蒲原有明 薄田泣菫』を読んだ。この文庫は「浪漫的心性に富んだ近代の文学者・芸術家を選んで42冊とし、、、、それぞれの作家精神を窺うにたる作品を文庫本という小宇宙に収めるもの」である。維新草莽詩文集、富岡鉄斎西郷隆盛内村鑑三から始まり、三島由紀夫で終わるシリーズだ。第15巻には「草わかば」「独絃哀歌」「有明集」、ロセッティ訳詞などの作品を収容されている。難解な語彙、七五調中心のリズムのよい詩は独特の世界だ。「なべての樹にまさる 公孫樹よ、」から始まる「公孫樹」(いちょう)という詩がある。薄田泣菫も「ああ日は彼方、い伊太利の 七つの丘の古跡や、」で始まる「公孫樹下にたちて」を書いている。いずれも象徴詩人の作である。

蒲原の「蠱惑的画家」という小文が載っている。青木繁の有名な「海の幸」や「わだつみのいろこの宮」に名状すべからざる感動を受けて、青木との短い交友と悲劇を語っている。同時代の漱石また青木を天才とみていた。私も2011年に「没後100年 青木繁展 よみがえる神話と芸術」をブリジストン美術館でみた。そこで青木の傑作「海の幸」をみて、荒削りの迫力にある絵には強いメッセージを受けた。老人、若人などが10人ほどおり、大きなサメを背負う人や棒でかつぐ人などが夕陽の落ちる波打ち際の浜辺で歩く姿が描かれている。一人だけ画面を向いている白い顔があり、これは恋人の福田たねであるという説がある。神話的な世界と見る人をつなぐ不思議な目であった。

この文庫の薄田泣菫の「森林太郎氏」という小文が目についた。鴎外が亡くなったときに書いた、蒲原有明と岩野泡鳴の3人で森鴎外の団子坂の自宅への訪問の思い出である。「顔つきは案外若く、利かぬ気が眼から鼻のあたりにかけて尖って見えた」「元気な軍人らしいところが交って、私達は自分と同じ年配の人と話をしてゐるやうな気持ちになった」「森氏はかう言って声高く笑った。その声には、どこか馬の上で笑ふやうな軍人式なところがあった」と観察している。3人とも30代に入ったばかりで、鴎外は40代の半ば頃だろう。この小文には幼女時代の森茉莉も出てきて、鴎外の膝にもたれかかる。「茉莉さんか。こいつがかはいい奴でな、、」と目を細めながらわ笑う姿が描かれていている。薄田は軍人風の風格も持った文壇の老大家の印象を持った。

冒頭に掲げた「先生はいかん。あなたでいいや」は、蒲原有明が先導した老大家・森鴎外に対する時の若い3人の申し合わせである。7つ年下の青木繁にも、13歳年上の森鴎外にも同世代の人物として接している姿がみえる。詩は難解だが、こういった気概は好感が持てる。

蒲原有明/薄田泣菫 (近代浪漫派文庫)