川柳の世界ーー長男・俳句は風景、次男・川柳は人間を詠む

 NHKラジオ深夜便」の「明日へのことば」で十六代目尾藤川柳(1960年生)の解説を楽しく聴いた。

2016年襲名。元祖は柄井川柳(1718-1790)。1757年万句合。575・77・575・77を繰り返す。77(前句)・575(付け句)・77(脇)。575(平句)、、。長男が俳句(切れ字。かな、けり。500年)。次男が川柳(264年)。「ひん抜いた大根で道を教えられ」(川柳)。「大根引き大根で道を教えられ」(俳句、一茶)。俳句は風景、川柳は人間。文化文政に興隆。4代目。一句16文。武士と旦那。柳亭種彦「俳風柳多留」が原点。孝行のしたい時分に親はなし」。江戸時代は平均寿命38歳。人生50年。「孝行をされる白寿にする喜の字」。人生100年時代。屋上に出て踏んづける社長室。気持ち、心を吐く。3首の神器は印籠、掛け軸、脇差。川柳生誕300年。北斎没後170年。画境老人卍は北斎の川柳名。14歳から88歳まで400句。川柳漫画。口伝。これを活字や映像で残したい。博物館、資料館。限界文学。ストレスフリー。話し言葉人間性。共感。「とれかけたボタンわたしによく似てる」ひねるから時間がかかる。「少しつかれてあたたかい色になる」。喜びは倍、悲しさ半分。

尾藤川柳。1960年東京生まれ。十六代目の櫻木庵川柳。発祥以来260年、人々の中に生きた文芸としての川柳発信を行いながら、川柳文化の継承を願っている。 祖父・三笠、父・三柳も川柳家。久良伎-雀郎系の師系をもつ父の影響で、作るだけの川柳ではなく、学問体系としての「川柳学」、嗜みとしての「文人文化」を仕込まれる。15歳より「川柳公論」入門。川柳公論編集委員を経て、2005年に川柳学会を創設、翌年、「川柳さくらぎ」を創設して新人育成に力を入れる。2007年の「川柳250年」、「慶紀逸250年」、「素行堂松鱸160年」、「八世川柳120年」、「柳多留250年」をはじめ、機会を捉えて社会への川柳発信の行事を企画、推進。講演、講座、教室、著書、公募川柳選者、フォト川柳展等で川柳の文化を発信している。 女子美術大学特別招聘教授、早稲田大学エクステンションセンター川柳講座講師、川柳学会専務理事、「川柳はいふう」主宰。
 編著書に『川柳総合大事典』、『目で識る川柳250年』、『川柳のたのしみ』、『鶴彬の川柳と叫び』他、テキストに『川柳染筆講座』、『川柳篆刻講座』、『川柳入門』、『短冊の書き方と鑑賞』他、句集に『門前の道』、『門前の道Ⅱ』、『川柳作家ベストコレクション 尾藤一泉』他。 篆刻に関しては、尾藤三柳に学び、川柳家の芳明洞に私淑して独学。「玄武洞印」として多くの作品を世に送る。 画は、武蔵野美術大学で油絵、テンペラを学んだことに始まり、現在女子美術大学日本画科で教鞭をと
る美術系の知識と技術を活かし、俳画よりややリアリティのある柳画を描く。 

ブログをたどってみると、いくつか気に入った川柳を載せている。「順不同能ある人が先に逝く」(今川乱魚)。 「無理させて無理をするなと無理をいう」(サラ川の傑作)。 「爺ちゃんの口癖いつも老婆心」(不良長寿)。「塩などは 安いもんだと 若秩父」「出羽錦 塩の値段を 知っており」。自民党らしさがでてきた民主党」。「ヘボゴルフ 練習場で ファーの声」(オーイ同将)。「悟ったと 大声出したの 何回目」。「子ができて川の字なりに寝る夫婦」。「自分史へ紆余曲折のいばら道」。

私もこのブログでも川柳のまねごとをしているのに驚いた。おくりびとせめてなりたや悼む人。おくりびと世界のオスカー贈られる。太郎と一郎どっちにつくかおれジロー。経済は経世済民の略とはホントかよ。子ども去り老犬残る夫婦となりぬ。テレビより ラジオが似合う日々となり。小金持ち小さな幸せ小市民。いつの間に娘アラフォーおれアラカン。ほんとうに百年に一度の危機か盛り場は。五十肩四十肩と見栄をはり。単身赴任終了す妻の休暇は終わりけり。天心と心平の記念館今度の旅は心の旅。ウオーキング絶対ちがう散歩とは。 賽銭も10パーセントを添えて入れ。、、、、。

「名言との対話」2月23日。野上豊一郎「私は能を日本の文化の産んだ最も卓越した物の一つとして考えてゐる」

野上 豊一郎(のがみ とよいちろう、1883年9月14日 - 1950年2月23日)は、日本英文学者能楽研究者。

大分県臼杵市出身。臼杵中学第一高等学校を経て1908年東京帝国大学文学部英文科を卒業。夏目漱石に師事した。1946年に法政大学総長に選ばれ、戦争で被害を受けた大学の復興にあたった。能の科学的研究を志し、斬新かつ独創的な研究を発表し続け、新分野を開拓した。『能・研究と発見』『能の再生』『能の幽玄と花』『世阿弥元清』など著書多数。総長在任中の1950年に死去。 1952年 4月に野上記念法政大学能楽研究所が設立された。

『能の話』(岩波新書)を読んだ。能について、野上は一つの舞台芸術が国民のものとして5世紀半以上というこんなに長く命脈を保ったといふことは、世界のどこの国にも先例のなかったことであると「序」で述べている。能は日本独特の物であり、発展の経緯は下から上へ向かって進んだものである点が特色だ。シテ(仮面)、ワキ、狂言方などが舞台に立ち、序・破・急という流れで進行する。鎌倉時代の猿楽の能が、室町時代観阿弥世阿弥の登場によって原型ができた。観阿弥は戯曲的構成を好み、世阿弥は幽玄第一主義をとった。能の大成者、卓越した能の作者であった世阿弥は、「家、家にあらず、つづくをもて家とす。人、人にあらず、知るをもて人となす」という。

『能の話』では、 昭和25年5月9日付で妻の野上弥生子があとがきである「跋」を書いている。野上は同郷の大分県臼杵出身の弥生子の家庭教師だった。後にこの二人は結婚する。それが作家、野上弥生子誕生の契機となった。二つ年上の豊一郎は同級生の安倍能成岩波茂雄とともに、夏目漱石に師事していた。弥生子は漱石の会に出る夫を通じて夏目漱石の指導を受ける機会に恵まれたのである「もし文学者たらんと欲せば漫然として年をとるべからず、文学者として年をとるべし」とアドバイスを受けている。弥生子は、「本書は能とはどんなものか、それさへ不案内な人人のために亡夫」が書いたものだと記して、10数年後の増刷にあたって、そのままに残すことにしたと短い文章を書いている。豊一郎の『能楽全書』の第7巻は、能の名人たちの芸談集だ。名言の連続だそうだから目を通したい。

能は、2001年5月に狂言と共にユネスコの「人類の口承および無形遺産の傑作」と宣言された。そして2008年には世界文化遺産に登録されている。野上豊一郎が「日本の文化の産んだ最も卓越した物の一つ」と評価した能は、ようやく21世紀になって世界に認められた。その一翼を野上豊一郎の研究が担ったのである。

能の話 (1950年) (岩波新書〈第62〉)