ニッポン放送「戸田恵子 オトナクオリティ」に出演。

ラジコ「戸田恵子 オトナクオリティ」。

女優・戸田恵子が大人の上質で豊な生活をエンジョイするための「人・モノ・コト」にフォーカスする番組!全国900以上の記念館を訪ね歩いた、多摩大学元副学長、久恒啓一が人物記念館の魅力を紹介する。

  http://radiko.jp/#!/ts/LFR/20200308140000一週間以内なら聞けます。

ニッポン放送戸田恵子 オトナクオリティ」

   https://www.1242.com/otokuri/

東京新聞3月8日。

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関東(ニッポン放送14時から)、仙台(東北放送9時半から)、九州(九州朝日放送17時半から)あたりから、反応が入り始めた。

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「名言との対話」3月8日。山岡孫吉「買うときは、頭を下げろ。売るときは、胸を張れ!」

山岡 孫吉(やまおか まごきち、1888年明治21年)3月22日 - 1962年昭和37年)3月8日)は、世界初の小型ディーゼルエンジンを開発したヤンマー(現・ヤンマーホールディングス創業者。

滋賀県出身。尋常高等科卒業後1903年、1万円を貯めようと母より貰った米一俵を換金した3円60銭を手に持ち大阪へ奉公に出る、1905年大阪瓦斯工事人夫として仕事をしていた時にガスエンジンに出会う。1906年、商売を志して独立、ゴム管ガス器具販売で1年で千円を手にする。中間マージンをとるブローカーではなく、技術で製品をつくるメーカーになろうとし、1912年、25歳で「山岡発動機工作所」を開いた。ガスエンジンの需要が多く、第一次世界大戦が終了した1918年、31歳で30万円の利益をあげた。

1921年農業用小型石油エンジンメーカーとなり、ヤンマーを商標として用いた。1932年、欧米視察に出、ドイツで開かれたメッセディーゼル博士が開発したエンジンに出合い、小型ディーゼルエンジン開発を決意した。売れている石油エンジンの販売をやめて、背水の陣で立ち向かう。無間地獄を乗り切り、1933年、世界初のディーゼルエンジン小型化に成功した。15人の技術者たちがエンジンのまわりで泣いていた、孫吉も一緒に泣いた。孫吉の人生のクライマックスである。

1953年、二度目の欧州視察で、ルドルフ・ディーゼル博士(1858年生)顕彰をすすめようとし、ドイツで話題になり、ドイツ政府より大十字功労勲章受章を贈られる。1957年、ディーゼル博士生誕100年・ディーゼルエンジン開発60年を前に博士が少年期を過ごしたバイエルン州アウクスブルク市ビッテルバッハ公園に記念石庭苑を寄贈した。自然石には「偉人は自分一人のためでなく、多くの人々のために、この世に生を受けたのである」という博士の座右の銘が刻まれている。

1957年、テレビで「ヤン坊マー坊天気予報」を開始した。子ども時代の私はこの天気予報を毎日のようにみていた。この天気予報は2014年3月31日で、55年にわたる放送を終了している長寿番組だった。この天気予報でヤンマーの名前を知った。1961年、大阪市北区茶屋町にヤンマー本社ビルを竣工させた。孫吉は1962年、社長在職のまま死去する。

山岡は1951年。第一回『藍綬褒章』を受章し、1955年、ドイツ発明協会金牌、1957年、ドイツ大功労十字章などを受賞している。

1956年に山岡荘八山岡孫吉伝 三円六十銭から百億長者へ』が刊行されている。わずか3年60銭を身につけて奉公に出た山岡孫吉は、1万円を目標とするのだが、結果的に百億の長者になるという伝記である。私は今回伝記の書き手として定評のある小島直記の『エンジン一代 山岡孫吉伝』(集英社文庫)を読んだ。

小成に甘んじない生き方をした山岡孫吉「優秀な社員は会社の宝や、貸借対照表にのらない大資産や」として大家族主義で社員を大事にした。そして「買うときは、頭を下げろ。売るときは、胸を張れ!」と社員に語っている。買うときは横柄に、売るときは卑屈に、という態度が普通である。購買は頭が高く、営業は腰が低いのが常識だ。優れた商品を買うのだから、ありがたく思う。自信のある製品を売るんだから矜持を持つ。これが山岡孫吉の信条なのだ。この言葉は、大事にしたい。

 エンジン一代―山岡孫吉伝 (集英社文庫)