立花隆『知の旅は終わらない』ーー立花隆は、青年期、壮年期、実年期を経て、熟年期の入り口に立っている

立花隆『知の旅は終わらない』(文春新書)を読了。

副題は「僕が3万冊を読み100冊を書いて考えてきたこと」。

知の旅は終わらない 僕が3万冊を読み100冊を書いて考えてきたこと (文春新書)

哲学、古代文明脳科学、司法、音楽、美術、近現代史人工知能、神秘思想、論理学、宇宙、がん、、、、。知の旅の自分史である。

エリート校の小学校で知能検査で学校一番。上野高校時代には旺文社の大学入試模擬試験で全国一番になる。ノーベル賞湯川秀樹にあこがれて素粒子物理学をやろうとするが、色弱のため断念。(こういう記述は、立花隆には珍しい)

東大に入り原水爆禁止運動にのめり込む。原爆禁止映画を上映しながらヨーロッパを旅することを考え、実行に移し、ロンドンの国際学生青年核軍縮会議から招待状が届く。半年間の旅で人生最大の勉強をする。帰国すると、デモなんかよりもやるべきこと、なすべきことが山のようにあることに気づく。20歳前後はかたっぱしから口の中に放り込む時代だという。(同感だ)

文芸春秋社に入社するが、仕事がいやになる。本も読まなくなりどんどんバカになっていく気がする。3年で退社し、東大の哲学科に学士入学する。文春時代に本名の橘隆志と同音異字の立花隆というペンネームになる。(就職して多忙で本を読まなくなり、そのような生活に疑問を感じる。私の場合は、何とか知の旅を続けようと悪戦苦闘)

事前の準備がインタビューで引き出せる話の質も量も違う。一流の学者を個人的な家庭教師にするようなものだった。取材でいちばん必要なのは質問力だ。質問する側の知性が試される。(雑誌や本の取材で、偉い人にインタビューをするのが一番面白い)

人は小さな旅がもたらす小さな変化の集積体として常住不断の変化をとげつつある存在だ。(人は変化が常態だ)

20代から30代前半の「青春漂流」の時代を経て、一人前の人間になる。定住生活を始める。成人期の始まりだ。34歳で「文藝春秋」に「田中角栄研究」を書き、田中首相の逮捕へつながっていく。その過程で出版をじゃまする人々に遭遇し、第二弾はでなくなる。「あんな奴らに負けてたまるか」という怒りがエネルギーとなって1万枚を超える仕事がスタートする。(20代の青春漂流を経て、私も30歳前後から足元を掘り続ける定住生活に入った)

スピノザの「永遠の相の下に」に見ることが大事だと悟る。「時代をこえて語られるのは、ただひとつ、時代をこえて語られるだけの価値を持つ真理である」。永遠の相の下で見ても価値がある言葉を発見する方に仕事の中心を移していこうと考える。(永遠相のもとで取り組むべきテーマ、やるべき仕事に向かうことだ)

38歳、『日本共産党の研究』(講談社ノンフィクション賞)。43歳、菊池寛賞。同年に初めてのベストセラー『宇宙からの帰還』。51歳、『精神と物質』で新潮学芸賞。52歳、ネコビル竣工。54歳、『臨死体験』。58歳、第1回司馬遼太郎賞。73歳、『自分史の書き方』。76歳、『武満徹」・音楽創造への旅』。(この人の本はずっと読んできた。とくに知の技術関係は見逃していない)

同時代人として見た戦後現代史。近代史。生物の進化史。地球史。宇宙史。大きな視点でみると全体がよく見える。(歴史を追いかける旅人は、足元から遡ってどこまでも行くことになる)

人の死生観に大きな影響を与えるのは宗教だ。樹木葬か。(死生観が固まれば何も怖くはなくなる)

9年前に未発表リストの存在を発表している。そのうち3冊は完成済みという。この知の巨人は、間断なくいい仕事をし、その都度、メディアで話題になっている。その立花隆も80代を迎える。今後どのような知のパノラマを見せてくれるだろうか。この人も「終わらざる人」である。(1940年生まれの立花隆は、青年期、壮年期、実年期を経て、熟年期の入り口に立っている)

ーーーーーーーーーーーー

ヨガ:1時間

スイミング:1000m

ーーーーーーーーーー

「名言との対話」3月17日。伊馬春部「ふりかへりふりかへり見る坂のうへ吾子はしきりに手をふりてをり」

伊馬 春部(いま はるべ、1908年明治41年)5月30日 - 1984年昭和59年)3月17日)は日本作家劇作家

劇作家・放送作家。本名高崎英雄[たかさきひでお]。北九州市八幡生まれ。國學院大學に進み、折口信夫(釈超空)に師事し歌を学ぶ。伊馬鵜平の名で新宿「ムーラン・ルージュ」創立期の座付き作家となる。友人の太宰治から短篇『畜犬談』を捧げられた。

戦後、NHK連続ラジオドラマ「向う三軒両隣り」が好評を博し脚本家として活躍、放送作家の指南番的存在となった。ユーモア小説も手がけた。太宰治を取り上げた『桜桃の記』などのように、作家の評伝風な戯曲もある。

戸板康二は、「純情で篤実でおよそ敵を持ちそうもない」人柄と人物を評した。そして「素朴で生一本な村人、天性のおもむくままに伸び伸びと育った少女、よく笑うおかみさん」への愛情があったとしている。春部は志賀信夫の 『テレビ文化を育てた人びと 作家・文化人・アナなどのパイオニア』( 源流社)でも紹介されている。

1956年、第7回NHK放送文化賞受賞。1961年、『国の東』で芸術祭奨励賞受賞。1965年、『鉄砲祭前夜』にて毎日芸術賞を受賞。

北九州市立香月中学校の校歌の作詞もしている。その解説には熊本県民謡「五木の子守唄」を世に紹介したとある。歴史を振り返り、ダムと石炭という文明について高らかに歌う詩である。東筑中学から新制になった、遠賀川のほとりの東筑高校の格調高い校歌は折口信夫の作詞となっているが、実は折口の愛弟子・伊馬春部がつくったものではないかとの推測もあるようだ。

北九州市の八幡西区にある旧長崎街道木屋瀬宿」には「伊馬春部」の実家があり「旧高崎家」として記念館となっている。ここには春部の遺品をみることができる。太宰治とその師匠・井伏鱒二と写った写真もあるから訪ねよう。春部はこの豪商の5代目だった。太宰は「池水は濁りににごり、藤なみの影もうつらず、雨ふりしきる」という辞世の句を「みんないやしい欲ばかり」と記した書置を添えて伊馬春部宛に机上に残した。

伊馬春部は釈超空(折口信夫)直系の歌人でもあり、1976年には歌会始召人となっている。「坂」というお題であった。詠進歌は「 ふりかへりふりかへり見る坂のうへ吾子はしきりに手をふりてをり」だ。情景が浮かぶいい歌だ。