「シュルレアリスムと絵画」展ーーーアンドレ・ブルトン

 「シュールレアリスムと絵画ーーダリ、エルンストと日本の「シュール」」展(箱根のポーラ美術館)。

運動の指揮者・アンドレ・ブレトンは、1924年に『シュールレアリスム宣言』を発表し、運動を発足させた。この運動は世界の見方、人間の生き方についての新しい思想だった。1928年には『シュールレアリスムと絵画』という書物を書いている。

理性によるコントロールを受けない思考の書き取りである「自動記述」を始めた。あらかじめ何を書くかを決めずに、高速度で紙にペンを走らせる。それはマッソンやミロの自動デッサンにつながっていく。やがて、かけはなれた図像の並置によって不条理なイメージが生まれ、幻覚的効果が現れるエルンストらの「コラージュ」に発展していく。

シュールレアリスム運動は、第一次世界大戦への惨禍への反省から生まれた。合理主義に基づく近代文明への懐疑であった。

日本では福沢一郎などが禅と結びつけて取り上げた。しかし表面的に模倣されたが、反理性、反文明、反戦、反ファシズムの思想にはならなかった。むしろ「現実離れしていて真の理解が不可能であるさま」のことを「シュール」と呼ぶようになっていく。

大学生時代、部誌に「シュールロマンチスト宣言」なる文章を寄稿したことを久しぶりに思い出した。シュールとは「超」であり、「究極の」という意味で使っていたのだと思う。当時、「シュール」という言葉が話題になっていたのだろうか。

シュルレアリズムを創始し、「シュルレアリズムの父」と称された、詩人、文学者のブルトン(1896-1966)は、常にこの運動の中心にいて「法王」とも呼ばれている。エルンストやダリはブルトンから除名されており、創始メンバーはみなブルトンから離れている。

この企画展と図録、書籍を眺めて、20世紀の芸術にもっとも大きな影響を与えた芸術運動のひとつである「シュルレアリズム」については、ブルトン自身の名著よりも、まだ解説の方がわかる段階だが、少しだけ理解が進んだ気がする。

シュルレアリスムと絵画

アンドレ・ブルトンシュルレアリスム宣言』(岩波文庫

「自由というただひとつの言葉だけが、今も私をふるいたたせるすべてである」

シュルレアリスム宣言・溶ける魚 (岩波文庫)

 

「名言との対話」3月21日。俵田明「伝統の連環と社会の十字路に屹立する人間だけが、不易の生命をながらえ得る」

俵田 明(たわらだ あきら、1884年明治17年)11月13日 - 1958年昭和33年)3月21日)は、日本の経営者宇部興産創立者。社長。

没落士族の家系。興成義塾を卒業後、築地の工手学校を卒業し、電気技術者として陸軍砲兵工廠に職を得る。1915年渡辺祐策の誘いを受け沖ノ山炭鉱に入社し、炭鉱技師として炭鉱経営に携わる。1942年に沖ノ山炭鉱、宇部窒素工業、宇部鉄工所、宇部セメント製造を統合して宇部興産を設立し、同社の初代社長に就任した。

異業種の統合会社を一つの理念のもとに渾然と融和させるという課題があった。一応の体をなした形の中にどのような魂を入れるか考え、「尽忠愛国」「和衷協同」「反省感謝」「錬成卓越」「生産拡充」の社訓を制定した。戦後は石炭化学事業、ナイロン原料事業進出などを手掛け、同社の業容を大きく発展させた。NHK経営委員、日経連常任理事、経団連常任理事などの公職もつとめている。

一周忌を期して編纂が計画され、1962年に刊行された大著『俵田明伝』によれば、俵田明には、 秋霜のきびしさがあり、正しからぬもの、胡散くさいもの、あいまいなもの、不明瞭なもの、不精確なもの、不安定なもの、危険なものには、反発した。また責任感、実行力、私心のなさ、知識欲があった。体躯堂々、眼光炯炯、節度ある挙措進退、爽快な言辞。、、、などの言葉が並んでいる。

晩年には、会社の品格を高め、第一級の会社に仕立て上げたいとの願いを持っていた。

 七十路を今日越えにけり東路にゴルフに遊ぶ吾身うれしき

 菊の宴ここに七十有一年

 世の中に為すことありと大神の扶けたまひし余生尊し

「七十年古来稀なりとは人生五十と称えた当時のことであり、一般にも寿命の延びた現代にあっては、古稀も先に延びて私の余生も尚十余年はあるように思う。働き盛りはこれからとも言える。余生はすべてを神に任せ、共に活き共に働いて社会のために懸命の奉仕をしたいものと思う」。しかし、それからは10年の余生はなかった。享年73。

宇部興産創立60周年記念事業として、宇部市最大の俵田翁記念体育館が市に寄贈されている。俵田明の孫に林芳郎(厚生、大蔵大臣)、ひ孫に林芳正(防衛、農水、文科大臣)がいる。

「伝統の連環」とは歴史のことであり、「社会の十字路」とは地理のことだろう。歴史のたて糸と地理のよこ糸を織りなして、人生と企業の美しい織物を仕上げた人である。

 

参考:「俵田明伝」(俵田翁伝記編集委員会