新著『人生遅咲きの時代 ニッポン長寿者列伝』の書評がアマゾンに出始めた。

新著『人生遅咲きの時代ーーニッポン長寿者列伝』の書評がアマゾンに出始めた。

 人生100年時代の教科書である。100年時代にはモデルがなかなかいない。そのモデルを提示している。私の「新・孔子の人生訓」の「大人期」(96歳から112歳)まで活躍した81人の生涯から勇気をもらおう。人生の後半は余生ではない。本番である。

  •  第二の人生を生きるヒントを得られる著作」
  • 「健康長寿を全うした長寿エリートの秘訣! 自分の人生のテーマに沿ったテーマを追った人物列伝を探る」

今のパンデミックの状況の中、健康寿命を維持するのが難しい時代。今を生き、未来をいきるためのテーマに沿った人物列伝が満載!自分の人生の羅針盤となるヒントが盛りだくさんの書物。

章立てに沿って自分の生きざまをなぞるとより読み応えがある。
第一章 前向きな人 第二章 続ける人 第三章 遅咲きの人 第四章 ひとすじの人 第五章 きわめた人 第六章 テーマ追い人 第7章 みがく人 第八章 気概の人 第九章 健やかな人 第十章 つくる人 第十一章 天寿の人 第十二章 スーパー・センテナリアン 
 十二章からなる章立てとなっており、ここから自分の今、未来に向けてのテーマの章から人物列伝をピックアップすると参考になります。
 私の場合、第一章 前向きな人 から 加藤シズエの生きざまと「一日10回感動すること。それが長生きの秘訣です。」の言葉に惹かれました。また、彼女は、今で言うジェンダーのはしりで女性学者上野千鶴子を重ね合わせました。第三章 遅咲きの人 では 橋本武の「幸福とは、好きなことを好きなように、好きなだけできること」とし、灘校で50年国語の教師として独自な方法の教えで有名な人。現在黒岩神奈川県知事の恩師で彼が橋本武を紹介。橋本武が国語を好きになったのは、今神田伯山が登場しブームになりつつある講談、これを小学校の授業で先生が講談師さながら講談語りを聴いたのがきっかけでした。第四章きわめた人では、日本文学者のドナルド・キーンに興味をもって読みました。今もっともきれいな日本語をしゃべる国文学研究資料館館長ロバートキャンベルに思いを馳せました。第八章 気概の人 では105才で人生を全うした聖路加病院の医師日野原重明の健康十箇条は、秀逸。1.小食。(腹七分目)2.植物油3.階段一段飛び 4.早く歩く5.いつも笑顔で6.首をまわす7.息を吐ききる(ロングブレス)8.集中 9.おしゃれを自分でする。10.体重。体温。血圧をチェック。を習慣化する。
等々 健康長寿エリートになるヒントが盛りだくさんの本の一冊です。(ポピュライザー)

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大学

・総研ミーティング:近況。観光財団関係のプロジェクト。湘南信金、、、。

・来週以降について秘書と相談

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「名言との対話」4月3日。武塙祐吉「聖人無功、至人無名」

武塙祐吉(たけはな ゆうきち 1899年8月15日ーー1964年4月3日)は、ジャーナリスト、政治家。

中学卒業時、「私は飛鳥の巡査になり、島一流の人物になって威張ってみたい」と述べて皆を笑わせた。早稲田の法律科を出て、秋田魁新報に入社するが、1年くらいで故郷に帰る。

今「二宮尊徳」と呼ばれた聖農・石川理之助と出会う。起居をともにする。粗食と重労働の人であり、裏表のない行動と優れた学問に傾倒した。

30歳の頃、故郷から秋田に出て県農政会に勤め、副会長の斎藤宇一郎に接し人格と識見に感銘を受ける。斎藤は東大林科を出て衆議院議員であった。斎藤に辞職とともに農政会を辞める。

石川理之助、斎藤宇一郎ともに、1913年に連合青年会の講演を聞いているという因縁のある人物だ。

武塙魁新報に復帰し、順調に要職をこなし、1945年2月に社長に就任するも、戦時中の責任者であったとして追放され、故郷に帰る。1951年、かつぎだされて秋田市長に就任する。一期目には小畑勇二郎(後の秋田県知事)を助役に迎えている。在職8年で、都市計画事業の推進、周辺十三カ町村の大合併など、今日の大秋田市の基礎づくりに大きな業績を残した。三選には立たなかった。そして秋田放送の社長に就任する。

新聞人としては秋田魁新報社長、為政者としては秋田市長、文化人としては一流の文筆家であった。三位一体の人物である。温厚誠実の君子人、文化人、気骨、眠るが如く眠らざるが如く、知るが如く知らざるが如く、とらえどころのない人物、、。さまざな人物評がある。

 号は「三山」。中国の独立峰・大平山は三山と呼ばれていて、秋田にも一園に独立した大平山があり、若い頃からそれを号としていた。その志とのとおり、武塙祐吉・三山は秋田にそびえる高い山になった。

 三山は人生の節目節目に総括的な記録を残す人であった。農政会を辞めた時には、漱石の「坊ちゃん」ばりの『単純な男』を書いた。故郷にあっては『斎藤宇一郎と農村指導』を書く。秋田魁新報社長を辞した後は故郷で『帰農半歳記』を書いた。市長就任後には青野季吉が「あせらず、迷わず、怒らず悲しまず、淡々として事に処している」と評した『離村記』、 所長退任後には『市長八歳記』、そして亡くなる寸前に完成した『秋田の人々』を書いている。生涯のある時代ごとに、その期間を総括するという習慣には感銘を受ける。これらを繋ぐと自分史、自伝ができあがるということになる。金子兜太縁のあった人々の名前を唱えながら生きていることに感謝する儀式「立禅」を毎朝行っていたことを思い出した。兜太の場合は、詠み続けた俳句が自分史であり、立禅もそうであった。また、自分の人生に現れる友人、知人、などとの邂逅をたどりながら書いた加藤典洋のエッセイ『大きな字で書くこと』も今年読んだ。三山の場合も、縁のあった人々の回想記である『秋田の人々』は生涯の最後を飾るにふさわしいと思う。人物自分史は、私も参考にしていきたい。

 三山は「聖人無功、至人無名」の語を好んで引用した。荘子の「至人の己なく、神人に功なく、聖人の名なし」をもじった言葉だろう。非凡なる凡人、大平凡人との人物評のある三山の晩年の心境であろう。

参考:元木東太郎「人・その思想と生涯」