「ZOOM、ZOOM、ZOOM」。あっという間にリモート生活に突入。

今日は「ZOOM」の日だった。気がついたら、あっという間にリモート生活に突入。

  • 8時から:子ども食堂をやっている石和田君から「ワカゲノイタリ」という大学生のグループの「朝活」に誘われて、ミュートと顔出しなしで彼らのコロナ生活を聴く。最後にメッセージを求められたので顔を出して少し発言する。「10代、20代は頭がスカスカな感じ。だんだつながってくる」「人は自分自身になっていく」「鍛錬。鍛は千日、練は1万日」、、。
  • 10時:自宅で仕事をしている秘書の近藤さんと初のZOOM打ち合わせ。
  • 13時:ビットメディア社長の高野雅晴さんからZOOMで相談。海外で「アニメと図解」を使う案件。ツール開発。出版に活用する案。ビットメディア:ICTサービスのR&Dと社会貢献。2012年のNHKロンドンオリンピック動画配信で活用され、スポーツやニュースでの利用が拡大しているクラウド型簡易編集システム「ShareCast Playlist Editor」。イトーヨーカドーやイオンの店舗などに設置されているペットボトル回収機で活用されているエコポイントシステム「Ecoca」、東京電力のWebサービス「でんき家計簿」などと連携し、エネルギー×IoTクラウド「SmartPower」。
  • ZOOMの背景撮影用のクロマキーグリーンが到着。何を背景にしようか。

ーーーーーーーーーー

強風を伴う雨の日。ヨガ2本。歯医者。読書。

ーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」。4月13日。木島則夫「達人にはなれるが、名人にはなれない」

 木島 則夫(きじま のりお、1925年5月10日 - 1990年4月13日)は、日本の司会者ニュースキャスターアナウンサー政治家民社党参議院議員2期)

NHK入社時の22人のアナウンサーの先生は志村正順だった。 木島は熊本時代、東京に帰るために、一つだけ自分のものをつくておこうと、「街頭録音」に打ち込んだ。ここで「度胸」と「一瞬の判断」を身につけている。

東京への転勤は、八木治郎、小川宏も一緒だった。懸命に取り組んだ教養番組「生活の知恵」をやめることになったとき、志村部長は「君の責任は終わったのだ。済んだことだと思ってあきらめなさい」と諭す。16年間のNHK退職時には「きみは、ついにサラリーマンにはなりきれなかったね」と言った。志村正順はずっと木島を見守ってくれた。ずっと見守ってくれる先輩がいたことは幸せなことだ。

1964年の退職直後の4月より、日本教育テレビ(NET。現・テレビ朝日)の『木島則夫モーニングショー』の司会を1968年3月まで務め、「泣きの木島」と呼ばれて人気を集めた。]ワイドショーブームの火付け役となった。『モーニングショー』降板後は、日本テレビとで『木島則夫ハプニングショー』、『NNNワイドニュース』等の司会を担当した。

1971年の参院東京地方区に民社党から当選。参院議員を2期つとめ、党の青年婦人対策委員長に就任、国会では食品の不当表示、人工甘味料の追求を行う。58年落選した。

「不器用な優等生」と高峰秀子から指摘された木島則夫は、先輩や同僚から学んでいる。高橋圭三「木島君、山あり谷あり野原ありだよ」。出演者からもヒントをもらっている。曽野綾子「作家としての曽野綾子は、わたくし本体とは関係のない幻影でしかありません」。今回読んだ木島則夫の著書『人を動かす話かた』(講談社)には「おしゃべり不器用論」とのサブタイトルがついていた。

インタビュー作法も述べている。人間はだれしも泣きどころはあるし、ふれてもらいたいところがある。「ふろにつかって、台本を読むと、よく覚える」のだが、本番では予定校は忘れることで自然な語り口になる。

長年の修養によって、その道を極めた人が達人だ。柔道、剣道、空手道、合気道、華道、茶道など、それぞれ「道」がついている。囲碁や将棋、研磨、釣りなどのにも道がある。日本刀では「鍛錬」をいう。鉄をたたいて鍛える。次に水につけて練る。剣道では、千日で鍛え、万日で練る、と武蔵が述べている。達人になるには30年の歳月が必要になる。。そして達人の域に達した人がさらに猛練習を重ね、第一人者となったとき、人は敬意をこめて名人と呼ぶのである。アナウンサー道では時間的には30年を切ってはいるが、木島は何とか達人になったのだ、他の世界に飛び出していった。

まずは千日3年で入門を果たし、そして万日30年で達人になり、さらに続いて名人になっていく。武道や芸能の道だけではない。誰しも、選んだ職業、仕事の道をきわめていくことしかない。アナウンサーの世界でいわれている「達人にはなれるが、名人にはなれない」を、こう理解しよう。

 

参考:木島則夫『人を動かす話し方』(講談社