寺島実郎「新型コロナウィルス危機の本質ーー理性ある対応とはなにか(「世界」5月号)

『脳力のレッスン 特別編』の「新型コロナウィルス危機の本質ーー理性ある対応とはなにか」(雑誌「世界」5月号)を読了。 

19日(日)の東京MXの1時間半の特別番組(11時半から)は、最新著『日本再生の基軸』と雑誌「世界」の論考をもとにした一人語りとなるだろう。

世界 2020年 05 月号 [雑誌]

世界 2020年 05 月号 [雑誌]

  • 発売日: 2020/04/08
  • メディア: 雑誌
 

 寺島さんは「文献研究とフィールドワーク」という方法で「世界」を全体として把握しようと格闘する。その論文と講演が説得力を持つのは、論理の整合性と的確な数字の裏付けによる。論理の整合性とは全体の構造と部分同士の関係の明快さであり、的確な数字とは調査の行き届いた文句のつけようのない数字の裏付けである。

「世界」5月号の最新の論考を数字で追う。

  • 46億年(地球の歴史)。30億年(微生物の歴史)。200万年前(アフリカにヒト族ホモ・ハピリス)。20万年前(「ホモ・サピエンス)。
  • 37兆から60兆(人体の細胞)。数百兆(常在菌)。
  • 4000万人(1918年スペイン風邪の死者)。3500万人(エイズ)。200万人(1957年アジアかぜ)。100万人(1968年香港かぜ)。27万人(新型インフルエンザ)。
  • 90兆円(「日銀ETF+年金基金GPIFの株式投入)。
  • 16%(1988年世界GDPに占める日本)。6%(2018年)。1.8%(2050年)。
  • 提言:ウィルスの検査、医療、研究への資金投入と体制整備。BSL-4感染症対応施設の整備。国際連帯税の導入、たとえば航空券連帯税、金融取引税。

東西の、そして最新の文献を読んでいる。今回のウイルスについては下記の書物。

  • エド・ヨン『世界は細菌にあふれ、人は細菌によって生かされる』(柏書房2017年)。フランク・ライアン『破壊する創造者ーウィルイスがヒトを進化させた』(早川書房2011年)。

文芸春秋』5月号は総力特集は「「コロ戦争」だ。歴史学者磯田道史の「感染症の日本史ーー答えは歴史の中にある」からも数字をを拾う。 

  • 文献:速水融『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』。石弘之『感染症の世界史』

塩野七生ギリシャ人は神殿を建てるが、ローマ人は上下水道の完備のほうを優先する」。

藤原正彦ニュートンケンブリッジ大学がペスト大流行で休校となった1年半の間に、故郷で思索を重ね、微分積分万有引力を発見した」。

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「名言との対話」4月17日。林原一郎「俺は汚く儲けに儲けて、その金を生かして、将来必ずだれにでも出来ない、美しい夢を実現しよう」

林原一郎(1908年7月26日ー1961年4月17日)は、昭和期の実業家 。林原コンツェルン創業者。

水飴(あめ)工場の長男として生まれ、のち大学でトウモロコシから水飴をつくる製法を研究。戦後林原コンツェルン創立、実業家として成功を収める。

岡山一中時代の同級生の親友に、全国の100万の信徒がいる黒住教大5代教主の黒住宗和がいる。もう一人が大原総一郎だ。この時代に「敢えて母校の原罪を斬る」との弁論を張っている。六高の予備校と化した体質の批判である。「大石内蔵助もベートーベンも、リンカーンも大西郷も、岡山一中生であったならば、必ず劣等生扱いをうけるでありましょう」。剣道ではいっさい防御をせず面一本の剣士だった。林原は目立たなかったらしいが、しだいに大きくなっていく人である。

『春雷のごとく 林原一郎風雲録』から 林原一郎語録を時代順に拾う。

・同じ過ちを二度繰り返す奴は馬鹿だ。

・俺は汚く儲けに儲けて、その金を生かして、将来必ずだれにでも出来ない、美しい夢を実現しよう。

・努力することに無駄はない。

・人生には思いがけない蹉跌がおこりがちだ。だが、僕は努力することは必ず報われると信じている。

少年時代から剣道に親しみ、学生の頃から刀剣の収集を始め、戦後備前刀などの古刀や日本陶器、中国漆工芸などの古美術能装束など400点を収集している。1964年収集品を展示する岡山美術館が開設され、1991年林原美術館改称した。私はこの美術館には2017年3月3日に訪問している。当日のブログには林原一郎の銅像の写真と共ともに「岡山財界の雄。祖父の水飴会社を発展させ、巨万の富を得て、これを美術品に替えた。浅見のメ明と卓越した審美眼で、藩主池田家の蒐集品以外にも優れた作品を蒐集した。52歳の若さで没した。その遺志を継ぎ1961年に財団設立。1963年にコルビジェの弟子・前川国男の設計で1964年に完成」と記している。

今回読み込んだ『春雷のごとく 林原一郎風雲録』(秋吉茂)の中で、本人は「岡山の味覚」と題したエッセイで自分のことを「林原一郎氏は、刀剣研究にせよ、美術骨董にせよ、何でも首をつっこんだら徹頭徹尾、とことん蘊奥を極めねば気のすまない人だった」と分析することから始め、食通ぶりを述べた後、最後の「言い残しの記」で「料理の旨まさというものは家庭料理にとどっめをさす」と締めくくっているのは愉快だ。

林原一郎の生涯を眺めると、自己に厳しい心構えと心がけ、そして徹底した努力と果敢な行動力で、事業家として大成功は当然のように感じる。その事業は長男健、次男・靖に引き継がれている。そして学生時代からの美術品の収集に長い時間をかけて励み、林原美術館という「美しい夢」を実現したのである。

 「人間に大切なことは、毎日毎日、いまを精一杯生きることや。、、、毎日を精一杯、充実して生きるならば、たとえ三十年、五十年でも、立派に生きとおしたという充実感があるもんや」の言葉通り、53歳のやや短い生涯であったが、本人は満足していただろう。