「後ろ姿探検隊」(インスタグラム)ーー私の視線。何を見たか。自分史。

「後ろ姿探検隊」というテーマで2019年1月から写真を撮って、インスタグラムにアップするという習慣がついている。もう200枚以上はたまっている。人間の後姿は実に面白い。最近の作品をならべてみた。公園における親子、夫婦、家族、友人、、。そこには私の視線がある。何を見たか、それは自分史でもある。

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授業準備

ヨガ1本

読書『東京都知事列伝』。

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「名言との対話」5月5日。吉岡隆徳「死ぬまで記録を追って、後輩に記録を残したい」

吉岡 隆徳(よしおか たかよし、1909年明治42年)6月2日 - 1984年昭和59年)5月5日)は、昭和初期に活躍した陸上短距離選手

 吉岡は、1932年のロサンゼルスオリンピック100メートル決勝で6位入賞したファイナリストだ。その後10秒3の世界記録を3回出している。この日本記録は29年間破られる事はなかった。日本人として初めての陸上の入賞者であり、また世界記録樹立者である。

その快走は「暁の超特急」と呼ばれた。これを考えたのは川本信正という読売新聞運動部の記者である。川本はオリンピックを5つの輪からの連想で、五輪と訳した。宮本武蔵の『五輪書』の影響もあったそうだ。日本人とアスリートに馴染む名訳である。

ロサンゼルスオリンピックで優勝したアメリカ人は「ミッドナイトエクスプレス」と呼ばれていた。深夜の超特急である。これにちなんでスタートダッシュが素晴らしかった吉岡を「暁の超特急」と命名したのである。ここにも知られざるエピソードがある。 

身長165センチと当時でも小柄であった吉岡は前半で勝負を決めようと考える。50メートルまでが勝負だと、スタートダッシュに集中をした。スタートのやり方、走行フォーム、足の回転を速くする方法などを必死に研究し、カンと動作を鍛え、ピストルがなると同時に飛び出すことができる「ロケットスタート」をものにした。

NHKの「第9回極東選手権競技大会」の映像をみたが、初めから圧倒的なスタートで、ぶっちぎりの優勝をかざっている。吉岡はベルリンでは、2次予選で敗退。3度目の東京は、大会そのものが流れてしまう。引退した吉岡は1941年には広島高等師範学校教授に就任。戦後は広島県教育委員会保健体育課長を務めた。1952年にはプロ野球・広島カープの初代トレーナーとなっている。

55歳でリッカーミシン陸上部監督に就任し、100メートルで10秒1を出して29年ぶりに吉岡の記録を抜いた飯島秀雄依田郁子らを育てた。飯島は有名な選手だったが、オリンピックではは惜しくも準決勝で敗退している。自らの記録は破られてほしくないはずだが、吉岡は本当にそれを残念と感じていた。

この人の特色はもう一つある。「100メートルは私の一生の友です。歳をとったからといってこの友と別れることはできない」として、年齢別のマスターズ大会で100メートルの記録に挑戦し続けたことだ。NHK「あの人に会いたい」では、「死ぬまで記録を追って、後輩に記録を残したい」と語っている。その吉岡は、70歳では15秒1を出している。まさに、100メートルに命を捧げた生涯といっていいだろう。「昭和史を語る会」を主宰している保坂正康は『100メートルに命を賭けた男たち』(朝日新聞社)で吉岡を取り上げている。この本を読んで吉岡に関するこの記述を充実させたい。

『わが人生一直線』(日本経済新聞社)という自伝もあるように、現役時代、コーチ時代、そしてマスターズ時代と、まさに100メートルに生涯を賭けた人である。