東京MXテレビの特別番組 寺島実郎の日本再生論第2弾「ポスト・コロナへの視界」。

 東京MXテレビ(9チャンネル)20時から21時までの特別番組「寺島実郎の日本再生論 第2弾」。骨太な全体知の話は感銘を与えただろう。

以下、わたしの描いた図メモからのまとめ。

  ・仏教は疫病対策でもあった。お屠蘇は悪鬼を屠り魂を蘇生させる薬酒。隅田川の花火大会は1732年に徳川吉宗が大飢饉とコレラで亡くなった人々の慰霊と悪病退散で始めたという説あり。日本もウィルスと共存、共生してきた。

・速水融『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』の表紙はマスクとうがいだ。変わっていない。

・100年前のスペイン風邪の大流行では、世界で4000万人が死んだ。第一次世界大戦の死者は1000万人であった。日本でも内地45万人、外地(樺太、朝鮮、台湾)で29万人が死亡している。当時は疫病の知識がなかった。1930年の電子顕微鏡の発明、1995年のアメリカ陸軍によって鳥インフルエンザの変化したものと判明した。この間80年かかっている。SARSは2ヶ月で病原体を特定できた。新型コロナは1週間だった。WHO(成果保健機構)のよれば、318の抗ウィルスの研究開発が進行中で、ワクチンも開発中だ。

スペイン風邪が日本を襲ったのは、日清、日露、第一次世界大戦で一等国意識が盛り上がった時期だ。あまり記録がない。一方、新型ウイルスは後退期の日本を襲っている。時代背景が違う。

・情報メディア環境を注視すると、100年前にはラジオ’1925年)もテレビ(1953年)も無かった。現在は1990年代のインターネットによる情報爆発の時代だ。そこに大衆メディア社会の落とし穴がある、「全体知と専門知」。感染症の専門家たちは42万人の死、接触の8割減というが、それは全体知か。科学ジャーナリズムの貧困という現実がある。「日経サイエンス」の特集では、アメリカの死者6万人(日本は550人)は格差と貧困によるマイノリティの人たちが主であり、医療、貧困、社会構造の問題として提出している。メディアは「命が大事か、経済が大事か」という問題の立て方という安手の\ヒューマニズムに終始している。そして知識人たちも簡単に主張を反転させてしまう。賢いバランス感覚が大事なのだ。

・致死率・死亡率をデータでみてみよう。世界の致死率は7.11%に対し、日本はPCR陽性者のなかの死者の率は3.25%だ。最近、抗体検査の数字がでてきている。東京は5.9%となり推定すると80万人、神戸では3%。抗体を持っている人は、PCR陽性者の10倍はいることになる。そうすると致死率は0.3になるのではないか。また100万人あたりの死亡者数は、日本、中国、韓国が低いというデータもある。日本では死亡原因3位の肺炎は19万人、インフルエンザ3000ー4000人。新型コロナでは現在までで550人。こういう相対感覚が大事だ。そして今後は、バイキンマンと共存するアンパンマンの世界と同じように、ウィルスの存在を前提として対応していかねばならない。

・山内一也「ウィルス・ルネッサンス」によれば、ウィルスは新しい医療に役立っている。ガンのオボジーボはウィルスで戦うし、新世代ワクチンもウィルスの力が必要だ。唯一の答えは、ウィルスと共生しつつ、慎重に細心の注意を払って生活することだ。

・今、自分にできることは何か。私は日本医師会の会長と面談し医療の現場を支えようとタッグを組んでいる。日本総研と共同で「緊急報告」をまとめた。気がついてみれば高機能マスク、防護服、人工呼吸器などの医療を支えるインフラは、海外依存になっていた。高機能マスクは55億枚の8割は輸入だった。防護服は10月までに6900万セット、人工呼吸器は7000台が必要になる。日本の産業力で解決の行動をしよう。コンソーシアムを組んで、東電が強い防護服の国産化をすすめ輸出産業に育てることもある。防災産業こそは日本の強みにすべきだろう。

原油価格と日本経済:原油価格は一時マイナスになったが、少し持ち直して5月1日現在で18-20ドルあたりの水準にある。ウィルスによる影響で一日あたり1億バレルであった需要は3000万バレル下がるとの予測あり。OPEC+ロシア・サウイジは970万バレルの減産に合意した。アメリカの動きがカギになる。原油マネーゲームの対象となっている。価格が下がるとシェールオイルが破綻するリスクが顕在化する。それはハイイ・イールド債のリスクが上昇することを意味している。そうならないようにアメリ中央銀行は債権の購入に走り支えている。この債券は日本の金融機関が購入しているからリスクが大きい。8月までに30ドルに戻らなければ危険だ。

・日本再生には、新たな方向付けが必要だ。戦後日本は、労働力を大都市圏に集中させ、鉄鋼・エレクトロニクス・自動車などの産業力で成長してきた。彼らが住む住宅は国道16号線上に配置し、団地、マンション、ニュータウンをつくりサラリーマンのベッドタウンをつくった。ここが定年退職で高齢化している。大阪、名古屋も同じっ構造だ。東京・神奈川・埼玉・千葉の人口は3600万人で日本の3割に迫る。日本の食糧自給率は37%まで落ちた。1965年は73%あった。現在の首都圏の自給率は、東京1%、神奈川2%、埼玉10%、千葉26%に過ぎない。

・埋没する日本の進むべき道:新型ウィルスによって、テレワークなどのデジタルトランスフォーメーションの進行と、リアル経済の凄みへの覚醒が起こった。この状況下で物流、宅配などのロジスティクスクス産業でライフラインを支える人々が動いている。「デジタルとリアルの融合」、この二つをインアパイヤーさせることが重要になってきた。

・考えるべきこと:腰高になった日本に必要な産業は何か。どういうポテンシャルがあるか。現場を支えている人に注目しよう。生身の人間にとして考える。日本の産業を不安定さからとり戻す。グローバル化で失ったものをとり戻す。正気をとり戻そう。

・「高村光太郎詩集」の「火星が出てゐる」。正しい原因に生きること、それのみが浄い、、、、。いらだちの中で単純化しないことだ。筋道の通った国の針路と人間の生き方を模索していきたい。

・来週の3回目(5月16日)は、世界の中の日本の位置づけを考える。中国に詳しいカリュウアメリカに精通している渡部恒雄が登場。米中2極構造からの離脱。地頭を鍛えよう。

ーーーーーーーーーーーーーー

読書

坊屋三郎「これはマニメな喜劇でス」(博美館出版)

・古川江里子「美濃部達吉吉野作造」(山川出版社

・「ロックフェラーラ回顧録」(新潮社)

ーーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」5月10日。小野竹喬「純正を求める為に、芸道の苦しみを受けることは法悦である」

小野 竹喬(おの ちっきょう、 1889年明治22年)11月20日 - 1979年昭和54年)5月10日)は、大正・昭和期の日本画家
岡山県笠間市生まれ。14歳で京都の竹内栖鳳に入門し、後に寄宿生となる。竹喬は、生涯に於いて西洋画、南画、大和絵、簡潔な表現、墨彩画と画風を変化させていく。1903年から1938年までの前期では、1921年の渡欧で、西洋画にはない「日本画の「線」を再認識する。1921年32歳で土田遷、野長瀬挽花、黒田重太郎と渡欧し1922年に帰国する、

近代西洋絵画の理念と日本画の技法と材料の相容れないところを解決することを決意する。南画の池大雅を思慕した竹喬は西洋というフィルターを通した線描と淡彩による南画風表現に到達する。

39歳の「冬日帖」は池大雅与謝蕪村、田能村竹田の影響で、代表作の一つとなる。40歳の「山」(水墨画を基調とした南画表現)、54歳の「秋陽」、58歳の「仲秋の月」は記念的な作品。62歳の「奥入瀬の渓流」は水の表情を線で描いている。
後期は、1939年から1979年。線描と淡彩の南画風表現から、素材の美しさを活かす大和絵風へと変化する。そして純粋な日本山水画を創造しようとし、大和絵の新解釈野時代に入る。

61歳、京都市立美術専門学校教授。69歳、社団法人日展常務理事。

71歳の「彩秋」、73歳の「残照」、78歳の「池」は水面の表情がいい。79歳、文化功労者。85歳の「日本の四季」は「春の湖面」、「京の灯」、「朝靄」。「河野辺り」。「樹雪」は、墨彩画で墨絵に淡い色をつけた。「日本美の、、は墨絵にあり」。87歳では、30年の宿願であった「奥の細道句抄絵」の連作を完成する。文化勲章。89歳で死去。

1982年10月に開館し、2001年に新館が完成した小野竹喬美術館を2015年に訪問した。竹喬の人柄を思わせるような、清楚なたたずまいだ。生誕120周年記念企画で、素描50点を含む120点を観ることができた。観た中では、島根県の良港を南画風に描いた「七類」、セザンヌの影響を受けた「島二作」、志摩半島の「波切村」が印象に残った。「暑き日を海に入れたり最上川」の絵もよかった。

『「素顔の「竹喬」さん」』(小野常正。山陽新聞社)を読むと、向かいの等持院で修行中の小僧時代の水上勉が正月に遊びに招いていた。その水上は「等持院を憶うことは、小野芸術への参入だといえる」と語っている。水上が毎日に連載した『冬の光景』の題字は竹喬の絵であった。

「無心になってものをみる」「自然と私のすなおな対話」が小野竹喬の絵を描くことだ。その過程で「苦しみを通り越して生まれてくる絵が、ほんとうのような気が此の頃はして来ました」となり、ついには「純正を求める為に、芸道の苦しみを受けることは法悦である」との心境に至っている。 

素顔の「竹喬さん」

素顔の「竹喬さん」