「一芸を持って人生生きたりぬ」「AIに水の旨さは分からない」「恥ずかしいあんな議員の選挙民」

 

月刊「川柳マガジン」4月号から。

 「遅咲き川柳」:一芸を持って人生生きたりぬ(みぎわはな)。アフガンに虹は残った、ありがとう(大嶋都嗣子)。戦乱を知らないままに古稀過ぎる(越智学哲)。晩学へ明日を語れる友が出来(中島和子)。遅咲きのさくら定年後は愉し(宮井いずみ)。

「時事川柳」:恥ずかしいあんな議員の選挙民(村上和巳)。居酒屋で小さくなっている与党。事務方と呼ばれ能吏が蔑まれ(江畑哲男)。国会に祀られている嘘の神(田沢恒坊)。 

AIに水の旨さは分からない(山本吐思尾)。人間の本音が聞ける三流紙(鏡淵和代)。二次会で知った昔の恋話(鶴邨)。

月刊川柳マガジン 2012年7月号
 

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大学:近藤秘書と打ち合わせ。オンライン授業でアイパッドを白板として使う技。レコーディングも。

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夜:デメケンのZOOMミーティング

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「名言との対話」5月18日。和田妙子「まるでおばあちゃんみたい」

 和田妙子(わだ たえこ 1911年 ? 2007年5月18日)は、ダンサー。

幼い頃からダンサーに憧れ、父の反対を押し切り上京し、東京松竹楽劇部に第1期生として入り、16歳で初舞台を踏む。もらった芸名「水の江たき子」を気に入らず、同期生と交換する。それが後のターキーである。

17歳で振り付けの先生と結婚、一女をもうけるが死別。のちジャズ歌手のリッキー宮川と結婚するも破局。1938年、舞踏の本場であった上海に渡る。抗日の気運が強かったため国籍を隠し、米英共同租界で国籍不明の人気ダンサー・マヌエラとして「魔都の花」として一世を風靡した。連合国側のスパイを疑われて憲兵隊に拘束され、戦後は日本のスパイとして米国の陸軍情報部から取り調べを受けた。

太平洋戦争が始まると帰国後。実業家の和田忠七と再婚し、喫茶店やクラブを経営。1952年、東京・内幸町にナイトクラブ「マヌエラ」を開く。前田憲男ジョージ川口マーサ三宅といったジャズメンが巣立ち、マヌエラはジャズ・マンの登竜門となり、妙子は「戦後日本のジャズの育ての母」と呼ばれた。

波乱の多いドラ性の強い生涯を送った和田妙子をめぐっては、モデルとなった小説『ルーズベルトの刺客』(西木正明)などの本が多数ある。本人も自伝『上海ラプソディー ~伝説の舞姫マヌエラ自伝~』を書いた。

後年、ある人が昼間に自宅を訪ねたとき、きりりと冷えた冷酒を飲みながら「昔は人に肌を見せることが好きだったんだけど、最近はお風呂あがりに鏡を見ると、なんだかしわしわで、まるでおばあちゃんみたい」と語ったという。その時、妙子は89歳だった。享年は95。

きんさん、ぎんさんが100歳になってメディア出演などでお金が入ったとき、「お金を何に使いますか?」と聞かれた。2人揃って「老後の蓄えにします」と答えて話題になったのと同じ心意気を感じる。もうおばあさんなのに、それを認めない。人生100年時代は、これくらいでないといけない。