「日本探検」の仮図解

梅棹忠夫著作集第7巻「日本探検」の仮図解化が進行中。

「文明論的探検」。現代日本の文明史的位置づけを、具体的な土地と現象に則して考えようという意図。伝統と近代化を連続面からみていく。個人の資格でつてをたぐるやり方をとおした。フィールドワークの接近法を崩さなかった。

「福山誠之館」。「大本教」。「北海道独立論」。「高崎山」。「名神高速道路」。「出雲大社」。「空からの日本探検」。「「日本探検」始末記」。10枚。

他にやり残したテーマとして、近江菅浦、陶(すえ)があった。それに総論の「現代日本文明論」を加えた「増補版 日本探検」ができがったはずだ。さらに電波通信と放送事業をテーマとした「生駒山」、林業をとりあげる「秋田の森林地帯」も候補にあげている。

また、日本文明における航空事業のありかたを考えようとする「空から日本各地を訪問する」も予定されていた。それは「日本群島」という書物にする構想だった。

これらは、完成していれば「主著のひとつのなったであろう」という梅棹本人の解説がついている。

「日本探検」の主題は、人類の未来に日本文明はなにを寄与しうるかであり、日本文明におけるあたらしい可能性はなにか、であった。それは具体的事例をとおしての梅棹忠夫の「思想の表白」だ。

この「日本探検」は、梅棹忠夫を理解するのに、重要な論考である。仮図解から本図解へと向かおう。

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ヨガ2本。

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「名言との対話」5月19日。藤平光一「出ずる息は天地万世(よろず)に及び、吸う息は腹内の寸分におさまる」

藤平 光一(とうへい こういち、1920年1月20日 - 2011年5月19日)は、 日本武道家。心身統一合氣道創始者

東京生まれ栃木県出身。幼いころから病弱であであった。慶応義塾大学入学後、山岡鉄舟の高弟の小倉鉄樹から禅や呼吸法を学び体が強くなる。19歳から植芝盛平に合氣道を学ぶ。卒業後、中村天風に師事し心身統一法を学ぶ。1953年に渡米し、全米20州に合氣道を普及した。1971年、「氣の研究会」を組織し、1974年に心身統一合氣道会を立ち上げ、国内外に20万人を超える会員を擁した。

心身統一の四大原則は、「臍下(せいか)の一点に心をしずめ統一する」「全身の力を完全に抜く」「身体の総ての部分の重みを、その最下部におく」「氣を出す」をあげている。

「氣」の字の外側は天体をあらわし、中の「米」の部分は中心から八方に広がっている状態を指す。「氣」には天体のように八方に広がっていくという意味がある。「気」は自分の中に「氣」をためるために出口を締めるという意味だから、正しいのは「氣」だ。日本人は「米」を食べ、エネルギーをもらい元氣になる民族だ。

藤平光一は、心身統一合氣道はあらゆる分野に応用できるとし、プロ野球荒川博を皮切りに、王貞治一本足打法をはじめ、長島茂雄選手、榎本喜八選手、広岡達郎監督、与那嶺要監督らが指導を受けている。ゴルフ、テニス、ラグビー、相撲、実業人にも弟子は多い。

仙台時代に、友人の富田秀雄さんに紹介されて藤平光一の高弟に「氣」を学んだことがある。この友人は現代医学の最高峰の学者が指導する「氣」の呼吸法の教室に長く通っている。先日、この医学者に紹介されて東京で会ったが、西洋医学では説明できない「氣」を解明したいと語っていた。

藤平は、「氣」と同じく言葉には魂がある、「言霊」は実在すると考えていた。エネルギーを持っている。言霊が潜在意識に宿り、その心が身体に影響を与えていくのである。体験の中から会得し、発した言葉が、自分だけでなく他人にも影響を与えるのだ。プラスの言葉はプラスのエネルギーを生んでいく。藤平は古今東西の書物を読み、金言、名言をノートに書きためていた。その珠玉の言葉を行動しながら確認していったのだろう。

藤平によれば、キーをたたくために余計な力を使っているから肩こりがおこる。「重みは下」という言葉を意識すると職業病は解消されると断言する。それは「身体の総ての部分の重みを、その最下部におく」という原則からきている。パソコンに向かうときには意識したい言葉だ。

「出ずる息は天地万世(ころず)に及び、吸う息は腹内の寸分におさまる」。これが呼吸法の極意である。口から息を吐きだし、最後に軽く上体を倒し、最後まで吐ききる。22秒。次に、鼻から吸い込み、爪先、脚、下腹、胸と全身に息を送る。最後に上体を起こし頭に息を吸い入れるイメージ 息を吸う。5秒ほど臍下の一点に心をしずめて待つ。計22秒。世界の「氣」を吸い込み、自らの「氣」世界に吐き出そう。