「フォト川柳」へ。

インスタグラムにアップし続けている「後姿探検隊」の写真。これに世相を詠む川柳を添えると面白いかも。フォト川柳か。

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「昨年の 今頃でした 桜見る会」

 

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「爺ちゃんの口癖いつも老婆心」

 

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「後ろから 見れば誰しも 善男女」

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大学

・授業準備。

・小林先生。

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「名言との対話」5月28日。堀辰雄「自分の先生の仕事を模倣しないで、その仕事を終わったところから出発するもののみが、真の弟子であるだろう」

堀 辰雄(ほり たつお、1904年明治37年)12月28日 - 1953年昭和28年)5月28日)は、小説家

一高時代には、師事した室生犀星芥川龍之介を紹介してもらう。そして師と仰いだ芥川から次のような書簡をもらっている。「私は安心してあなたと芸術の話のできる気がしました」。「なお私の所感にある本で読みたい本があればお使いなさい。その他遠慮してはいけません。また私に遠慮を要求してもいけません」と、芥川も堀を弟子として扱った。堀辰雄芥川龍之介とその晩年の恋人である片山広子との恋の目撃者となっている。大学在学中に芥川の死で衝撃を受け、東京帝国大学卒業論文として200字詰めで197枚の「芥川龍之介論」を書く。師を失った堀は「われわれはロマンを書かなければならない」と日記に書きとめていた。

卒業後、中野重治らとの同人雑誌『驢馬』三好達治らとの『四季』に詩や小説等を発表する。1930年『聖家族』を書いて文壇に認められた。人間の愛と死を主題にした『風立ちぬ』、王朝文学の影響を受けた『かげろふの日記』、1941年『菜穂子』等の作品がある。

風立ちぬ』のモデルとなる堀の婚約者・矢野綾子は、辰雄31歳の時に富士見の療養所で死去する。この堀越二郎を掘辰夫の名作「風立ちぬ」の主人公としてゼロ戦設計者・堀越二郎を描いたのが、宮崎駿版アニメ「風立ちぬ」である。子どものためのアニメしかつくらなかったジブリが初めてつくった大人のための作品だ。天下国家のための仕事と自分の家族との関係を両立させようとした物語となった。堀越二郎の上司であった父を持つ野田一夫先生はこのアニメをみて、実際の姿とは違うと違和感を語っていた。

室生犀星夫妻の媒酌で加藤多恵結婚し、軽井沢に新居を定めた。1941年、「菜穂子」(「物語の女」の続編として7年ぶりに完成)を『中央公論』に発表。 堀は全てが虚構に属する西洋風の本格的な小説書こうと決意し、「作りもの」としてのロマン(西洋流の小説)という文学形式を確立しようとし、この作品でようやくロマン小説が完成する。この作品は第1回中央公論社文芸賞を受賞した。詩を散文として表現できる稀有な作家だという評価もある堀の文学の主題は年齢とともに変容し、進化し、フランス文学の心理主義と日本の古典、王朝女流文学の融合に向かっていった。

1953年48歳にて死去。葬儀委員長は川端康成である。死後、友人や弟子たちの尽力で『堀辰雄全集』全7巻、川端康成の尽力で角川書店より、書簡を大幅に加えた全10巻が1963年(昭和38年)10月から1966年(昭和41年)5月にかけて刊行された。妻の多恵も「堀多恵子」の名前で夫に関する随筆を多く書き、2010年に96歳で死去している。

軽井沢の堀辰雄文学記念館を訪問したことがある。館内には、原稿・書簡・初版本・遺愛の品々が展示され、堀 辰雄の生涯と文学の背景を知ることができる展示室、辰雄が晩年を過ごした住居、愛蔵書が納められた書庫がある。閲覧室では堀 辰雄の関係資料を閲覧することができる。

堀は 立原道造中村真一郎福永武彦など次世代から支持された。中でも立原道造堀辰雄を兄とし、師とした。その堀辰雄の師は、芥川龍之介である。師にも師がいる。堀辰雄の小説家人生は「芥川龍之介論」で述べたように、師の苛烈なるものの正体をはっきりさせ、それに新しい価値を与えることであった。師を模倣者ではなく、次の時代に向けて松明を引き継ぐ人こそ、真の弟子なのだ。

堀辰雄  新潮日本文学アルバム〈17〉

堀辰雄 新潮日本文学アルバム〈17〉

  • 発売日: 1984/01/01
  • メディア: 単行本