ZOOM授業:学部は「ビジネスコミュニケーション」の5回目。大学院は「インサイトコミュニケーション」の2回目。

 

午前

・松本先生:来週の「事業構想論」のゲスト講師として登壇する予定。そのうち合わせ。リモートでインタビューされる。テーマは多摩大改革を事例とした「大学の事業構想」。

・学部の授業:5回目。テーマは朝日新聞「論壇」の「大学生の国語力低下を憂う」。以下、グループワークに関する反応。

「6人のグループはちょうどよい」「図には正解がないというので意見交換がしやすかった」「グループワークはうまくできた、来週も楽しみ」「誰かが積極的に発言しないとスタートしない」「話しかけても発言しない人もいる、どうしたらいいか」「先生がグループをまわって「どう?」と聴きまわることはとてもいい」「グループワークは円滑に進められた、もう少し大人数でもやてみたい」「いいグループワークだった」「やはり少ない人数だとやりやすい」「オンラインだと図解の細かいところが見えにい」「リーダーがあらかじめ決まっていたのでスムーズに進められた」「話し合いの時、誰もミュートをはずさなかった」、、

アイパッドの字が読みにくい」(手描きをやめて、アイパッド用のペンシルを使おう)

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午後

・出版社:「久恒啓一『図解コミュニケーション』全集」第一巻の打ち合わせ。表紙デザイン案が決まった。557ページの膨大なゲラをもらう。数日間でチェックする必要がある。

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・品川の大学院で3時間の授業、2回目。梅棹文明学の本質と知的生産の技術の意味を3つの図を使って解説。初回のテーマ「図解 私の仕事」の発表と質疑応答。「大学生の国語力低下を憂う」の図解。そして「コロナと経済」に関わる日本経済新聞の社説の図解に挑戦してもらった。フェイスブックでグループをつくり、そこに各人の描いた図解をアップし、それをみんなで見ながら議論をするというスタイルを開発したが、うまくまわっている。

ZOOMでの授業だが、和気あいあいとした楽しく学べる講座になっている。(写真のアップは全員了解済み)

以下の道具だて:カメラ・大型画面・パソコン・アイパッド・白版。

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社会人院生のアンケートから。

  • ①一番は、図解によって、新聞の社説でさえもその論旨を確認すること、正す?ことができるという点、私などは、朝日新聞「論壇」は妄信するばかりであった。②又私は、今回図解をイメージすることにより初めて、文章がより良く理解できるように感じた。新たな発見であった。図にしてみようと文章を読むのは意味のある読み方だと気づいた。③ただし、気になる点が一つ【図で考えることができるようになると、全体構想力がつく。】のか、そもそも【全体構想力がある人が図で考える力があるのではないのか?】と天邪鬼的に考えたりもした。
  • 本日はありがとうございました。①勉強になったこと。梅棹忠夫氏の業績等を知りませんでしたが、、、本日の講義で大変勉強になりました。あの当時、情報産業の重要性を予見し、知的生産を磨くことの必要性や世界の歴史や地理を俯瞰的に見ながら堂々と意見するなどスケールの大きい人物だと感じました。②感想:モデル化すれば理論にできる、という言葉が印象に残っています。今後意識的にモデル化するよう心掛けたいと思いました。

  • 今日の感想。書いてみて、疑問が出てくることがとても面白かった。■学んだこと最初の数字のリアルさに騙されたと日経の社説を読んで感じた。図に表せなかったことで気づいた。■疑問点:実践あるのみというこれをもっと早く知りたかったし、小学校でもやらないのか不思議。先生、ありがとうございました。

留学生(中国)院生(博士課程。修士課程)

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「名言との対話」6月5日。西脇順三郎脳軟化症は 永遠へ旅立つ美しい旅人だ」

西脇 順三郎(にしわき じゅんざぶろう、1894年明治27年)1月20日 - 1982年昭和57年)6月5日)は、日本の詩人近代詩)、英文学者文学博士)。

『超現実主義詩論』 (1929年) 、『シュルレアリスム文学論』 (1930年) などを発表、シュルレアリスムを日本に紹介するとともに、その主知的実践としての詩集"Ambarvalia" (穀物祭、1933年) により新詩精神運動の中心的存在となった。第2次世界大戦後は『旅人かへらず』 (1946年) 、『第三の神話』 (1956年) 、『失われた時』 (1960) などの詩集がある。

『寂しい声 西脇順三郎の生涯』(筑摩書房)の著者の工藤美代子の父は同郷の西脇順三郎新潟県小千谷市)と親交があった。工藤は中学2年生と高校2年生の時に西脇順三郎に会っている。「なぜ私を書くのですか」と言う中学2年生の少女に西脇は「それはね、やっぱり美しいものを描きたいからなんですよ」と本気の答えをしてくれた。

西脇は中学時代から「英語狂」であった。英国人と完全に同じになることを目的として勉強に励む。ニックネームは「英語屋」であった。考えたり、感じたりすることを外国語でできるようにしようという決意だった。西脇によれば、語学と言うものは独学が一番良い方法らしい。そんなものだろうか。

西脇は24歳で慶應義塾大学理財科を卒業した。卒業論文ラテン語で書いて提出し有名になった。英国オックスフォード大学に入学する予定で英国に渡り、若いの芸術家たちと交流を深めていった。その中の1人が後に結婚することになる女性画家であった。当時西脇は28 9歳で彼女は22歳だった。西脇の留学生活は3年余に及んでいる。妻のマージョリーと一緒に帰国する妻はなかなか日本に溶け込めず、8年間にわたる結婚生活にピリオド打っている。

西脇順三郎の活動の幅は広い。詩人、学者、画家としていい仕事をした。しかしやはり本質は詩人であろう。それまでの仕事の蓄積を全て投入して、西脇は最初の詩集を40歳の時に出した、そしてこの年1年間で5冊の単行本を出版している。

「自分は英語ができないと言うことがわかれば、英文科に入った目的は達せられたことになる」。これが慶応の教え子たちが卒業するときの西脇のはなむけの言葉であった。「英文科の学生は水陸両生動物のごとく英語も日本語も同じように使えるようにならなければならない」と学生たちに語っていたそうだ。

西脇は自伝めいものは書き残さなかった。西脇の詩は自叙伝のつもりで書いていたのである。

「詩は発達しない。形式は変化するが、私の精神は昔から変わらない」

「考えよ人生の旅人 汝もまた岩間からしみ出た 水霊にすぎない」

「生きていることは よく聞こえないものを聞くことだ よく見えないものを見ることだ よく食べられないものを食うことだ 最大なエックスに向って走るだけだ」

工藤美代子によれば西脇順三郎は晩年に名誉欲に取り付かれていた。慶応では文学部長などを歴任したが、学長にはなっていないのを残念に思っていた。また初期の教え子の佐藤朔(学長経験者)が勲一等瑞宝章であったのに、西脇は堀口大学と並んで勲二等瑞宝章受けている。これにも不満だった。

そして西脇の眼前には、ノーベル文学賞があった。ノーベル賞という妖怪は文学者に取り付くと、自決した三島由紀夫にみるように最後は理性を歪ませるしろもののようだ。1958年から1967年までの間に9度にわたってノーベル文学賞候補に推薦されていたが、取れなかった。最晩年には残念がっていた。

若い頃の西脇順三郎は晴れ故郷を嫌っていた。しかし「死ぬときは小千谷で死にたい」と口走るようになっていた。没後に小千谷市立図書館内に「西脇文庫」を開設され、2018年現在は「西脇順三郎記念室」となっている。2019年に「人物記念館の旅」で新潟を訪問した時には訪ねることはできなかった。

生涯にわたって誰にも心を開かなかった孤独の詩人は寂しい声でひそやかに語り続けた。「脳軟化症は 永遠へ旅立つ美しい旅人だ」と作品の中で書いていた西脇順三郎は、最後は自身も脳軟化症になっていく。享年88。

寂しい声―西脇順三郎の生涯