国連のアナン事務総長ーー「世界で最も困難な仕事」

「名言との対話」(平成命日編2)の筆債の処理。

「名言との対話」8月31日。 コフィ・アナン「すべての事柄 ― 紛争防止から開発、人権問題に至るまで ― について、人間を中心にした視点を貫くよう努めました」

コフィー・アッタ・アナン: Kofi Atta Annan1938年4月8日 - 2018年8月18日)は、第7代国際連合事務総長(1997年1月から2006年12月)。

アフリカのガーナ共和国の人。1958年、クワメ・エンクルマ科学技術大学経済学専攻)を卒業後に渡米、1961年、米マカレスター大学経済学部を卒業する。1961年から1962年まで国際・開発研究大学院 留学(経済学専攻)。1971-72年、米マサチューセッツ工科大学スローン・スクールMBA取得)、科学修士 (M.S.) 取得。

1962年、世界保健機関(WHO)の行政・予算担当官として国連に入る。国連アフリカ経済委員会、イスマイリアの国連緊急軍(UNEF)、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)に勤務する。

一旦ガーナに帰国後、1980年にUNHCR人事部長、1984年に国連本部の財務部予算部長、1987年に人事管理担当事務次長補兼国連システム安全保障調整官、1990年に財務官兼計画立案・予算・財政担当事務次長補を歴任する。1990年にはイラククウェート侵攻を受け、事務総長から特別の任務として、900人を超える国連職員の帰還と、イラクで人質となった西側諸国の人々の釈放を促進するよう要請される。人道援助物資購入のための原油販売に関しイラク側と交渉する初の国連代表団の指揮を取った。

1992年、PKO担当国連事務次長補、1993年から1996年までPKO担当国連事務次長を務める。1995年11月から1996年3月にかけては、旧ユーゴスラビア担当国連事務総長特別代表として、ボスニア・ヘルツェゴビナにおける国際連合保護軍(UNPROFOR)から北大西洋条約機構NATO)主導の和平履行部隊(IFOR)への部隊引継ぎを監督した。1997年1月1日、国連職員から選出された最初の事務総長に就任した。

この経歴にみるとおり、アナンはどのような組織の役職を与えられても、全力を尽くして、業績をあげ続けてとうとうトップの座にのぼりつめる。国連の事務総長という地位は、初代事務総長が2代目のハマーショルドに「世界で最も困難な仕事」であると紹介している。ハマーショルド中央アフリカの平和のために1961年まで働いた。ハマーショルドが来日した時のニュースでまだ小学生だった私もその名前を知っていた。その難職に10年にわたって就いていたというのは、並大抵の手腕ではないことがわかる。2001年には、常任理国同士の対立をさばきアメリカとイギリスによるイラク攻撃をいったん食い止めた協調外交や、エイズなどの感染症、テロ対策への貢献が評価され、国際連合とともにノーベル平和賞を受賞した。

 ノーベル平和賞受賞講演では、「私は事務総長としての任期中、常に、すべての事柄 ― 紛争防止から開発、人権問題に至るまで ― について、人間を中心にした視点を貫くよう努めました」と語り、また偉大な宗教などの教えの中に、世界の国家と民族の間の寛容の精神と相互理解のすすめがあると、次のように強調している。

寛容と相互理解の重要さは、すべての偉大な信仰および伝統の中で唱えられています。例えばコーランは、「私たちは一組の男女から汝らを創造し、汝らが互いに知る国家や部族に姿を変えさせた」とあります。孔子は信者たちに、「国中が良い状態のときは、大胆に話し大胆に行動しなさい。国が不安定なときは、大胆に行動し柔和に話しなさい」と説きました。ユダヤ教の伝統では、「汝自身を愛する如く汝の隣人を愛せよ」という戒めがトーラーの最も本質的な部分とされています。この考えはキリスト教福音書にも反映されています。福音書もまた、私たちの敵を愛し私たちを迫害しようとする人々のために祈るよう説いているのです。ヒンズー教には、「真実は1つです。賢者はそれに様々な名前を与えました」という教えがあります。さらに仏教徒の伝統では、人は人生のあらゆる場面で同情をもって行動しなければならないとされます。

21世紀の国際紛争の根源には民族問題が横たわっている。その難題を解くカギは、それぞれの民族や国家や世界が持つ宗教や伝統的な教えに内在する「寛容の精神」を呼び起こすことにあるとの思想である。仏教にはそれがあると聞いていたが、大宗教にはそれぞれあるのだろうか。

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「名言との対話」(戦後編)8月19日。和田一夫「無一物 無尽蔵」

和田 一夫(わだ かずお、1929年3月2日 - 2019年8月19日)は、日本の実業家

神奈川県小田原市生まれ。日本大学経済学部卒業後の1951年、両親の営む静岡県熱海市の八百屋「八百半商店」に入る。1953年、妻きみ子と結婚。1968年、八百半デパートに改称し社長に就任した。1971年、日本の流通業の海外進出第1号としてブラジル進出。1989年、ヤオハンデパート会長。同年、持株会社ヤオハン・インターナショナル設立、代表取締役会長となる。さらに香港にグループ総本部を設立、1990年、家族とともに同地に移住した。1996年、総本部の上海移転とともに上海に移住。30年で世界的な流通・小売業「国際流通グループ・ヤオハン」にまで発展させた。

1997年、経営危機に伴い日本に帰国した。同9月にヤオハン・ジャパンが経営破綻、和田はヤオハン関連の全ての役職から辞任し、ヤオハン・グループは崩壊した。

和田一夫『ヤオハン 失敗の教訓』(かんき出版)を読んだ。 和田によれば3度の失敗があったそうだ。熱海の大家で全焼し無一文になり「一生を八百屋に捧げよう」と決心した時。二度目はブラジリヤオハンの撤退。3度目がヤオハン・ジャパンの倒産だ。

三度目の大失敗の1997年のヤオハン・ジャパンの倒産時は68歳だ。世界16カ国に450店舗を展開し2万8千人の従業員を抱え、5000億円の売上を誇る企業が一瞬のうちに崩壊し、無一文になった。負債総額は1600億円。それを契機に、福岡県の飯塚市に住みIT松下村塾で起業家を育てるなどインターネットで再起をはかり、カンパニードクターとして、自らの失敗の経験を伝える事業を起こした。「失敗をおかした時、人間はそこから必ず得るものがある」と和田一夫はユーチューブで語っている。

一度目の失敗の時に、八百屋「八百半」を創業した、後に橋田壽賀子原作のテレビドラマ『おしん』(NHK)のモデルとなった母から「無一物 無尽蔵」という言葉を教わり、それが失敗時のばねになったそうだ。これは中国の蘇東坡の詩にある言葉である。「花有り月有り楼台有り」と続く。全てを投げ捨て、無一物に徹せよ。花や月など大自然は味わっても尽きることはないではないか。大いに楽しもう。全ては自分次第だという解釈で、苦境を乗り切っていく。

全てのものは因と縁によって移ろうものであり、実体などはない。すべてがなくなったとしても大したことはない。そこからまた人生を味わい、楽しもうではないか。そういう心境が「無一物 無尽蔵」なのではないだろうか。この言葉を唱えると、小さなことにこだわらなくなり、元気がでる気がする。不思議な言葉だ。