クラファン達成記念パーティをのぞく。E・H・エリック「ヘンな外人」。

こえラボの岡田さんのZOOMによる クラウドファンディング達成記念パーティをのぞく。20数人の多彩で多彩な人たちが集まっていた。

クラファンのプロデューサー小西光治(スバキリ)さん:情報をみた人の1-2%が支援。クリックしただけでもランキングが上昇。QRコード付きポスター1000枚fb/twitter。新しいリターンで飽きさせない。他に、メッセンジャーで拡散依頼。名前出しというリターン。支援者コミュニティ。、、、。「全集」の読書会の参考になった。

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筆債処理。

8月17日。E・H・エリック「ヘンな外人」

E・H・エリック(E. H. Erick、本名:岡田 泰美(おかだ たいび)、1929年8月1日 - 2000年8月17日)は、日本で活躍した男性タレント俳優

父は日本人画家の岡田穀(みのる)、母はデンマーク人のインゲボルグ・シーヴァルセン。父がパリ留学中に二人は知り合い、結婚し二人の男の子を産む。長男・泰美(たいび)がエリックで、6つ下の弟は俳優・タレントの岡田眞澄だ。一家は戦中・戦後にフランスから台湾を経て日本に移り住んだ。

兄弟はハーフの顔だちなのに「流暢な江戸弁」を話していた。日本語しか話せない息子たちに母は「これからは英語ぐらい出来なければいけません」と二人を横浜のインターナショナルスクールに通わせた。英語やフランス語に堪能なのは日本で学校に通って覚えたのだ。

 エリックは 日劇でコメディアンとしてデビューし、コントから芝居まで何でもこなすマルチタレント、ハーフタレントの草分けとなった。

エリックは日本語、英語、フランス語が堪能なことから、ビートルズ来日公演の司会やインタビューを始め海外タレントの来日公演にも多く携わり、芸能史に名を残した司会者となった。また劇場公演、映画、番組、コマーシャル出演などで活躍した。

 NHKの看板番組であった「夢で逢いましょう」のレギュラー出演をきっかけに、日本人離れした外見と日本のことに詳しい「ヘンな外人」として、E・H・エリックの名は日本中に知られることとなった。耳を動かすという特技があり、私も弟たちとよく真似をしたものだ。またタフマックEDという小野薬品の胃腸薬の新聞広告に、エリックとルーキー新一が一緒にでていたことも思い出す。

「ヘンな外人」という言葉は、流行し、今でもときおり聞くことがある。その元祖がE・H・エリックなのである。現在、タレントとして活躍中の岡田美里はエリックの娘である。16歳でモデルとしてデビューし、以後キャスター、女優としてドラマ、舞台、映画などで大活躍している。エリックの娘はすでにヘンでもなければ、外人でもない。時代が大きく変わったのだ。

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「名言との対話」8月18日。おおば比呂司「日記をつけて今日も一日という想いは旅のロマンがある」

 おおば比呂司(おおば ひろし、1921年12月17日 - 1988年8月18日)は、日本漫画家デザイナー

札幌生まれ、札幌育ち。料理屋の次男。戦後、北海道新聞社の図案課で挿絵を担当した。アイデアの卓抜さと早描きで輪転機と呼ばれている。フリーとなり、ほのぼのとしたユーモアあふれるタッチで時代の寵児となった。漫画集団に所属し、飛行機ファンとしても有名な人である。

旧・札幌控訴院(高等裁判所)を使った 札幌市資料館に「おおば比呂司記念室」が併設されており、作品や再現されたアトリエを見学できる。私は に訪問している。その一角におおば比呂司記念室があり、ひとコママンガ、イラストレーション、絵画など幅広い領域の仕事をしたおおば比呂司が紹介されている。モチーフは、飛行機、風景、食べ物などだった。

この人の顔は山川静雄アナが司会のNHK「ウルトラアイ」などのテレビでもみかけた。またおおばは著書が多いが、飛行機だけでも「にっぽんのヒコー記 「飛行機ひこうき」「私の航空博物館 : コントレール(飛行雲)を追って」などがある。全日空時代の「翼の王国」や時刻表の表紙はおおば比呂司の筆によるものだ。

 おおば比呂司『味のある旅 味覚道中日記』(旺文社文庫)を読んでみた。北海道から沖縄までの味の旅のイラスト付きエッセイである。旭川、阿寒湖、帯広、十勝、札幌、秋田、仙台、米沢、五所川原猪苗代湖、郡山、白河、東京、赤坂、松阪、奈良、大阪、神戸、福岡、広島、下関、宇和島、長崎、熊本、阿蘇、など訪問したことのある地のところは、食べ物のイラスト図と軽妙な語りで楽しめた。ほっけ、いかそうめん、キリタンポ、味噌ラーメン、石焼、鯉料理、どぜう、そば、うどんすき、かまぼこ、焼酎、、、、。赤坂の「重箱」には池波正太郎にお供したとある。ビジネスマン時代に私はここで村上春樹さんと二人でうなぎを食べたことがある。戦争世代だけに、同年兵や日の丸などの言葉もでてくる。
岩手県二戸のお菓子屋巖手屋を創業したおばあちゃんのキャラクターを描いた縁で、2018年には「おおば比呂司先生没後30年プロジェクトが立ち上がり、クラウドファンディングでの募集があり、236万円が集まって、4つのプロジェクトが実行されている。人がらがよかったからだろう。岩手 / 巖手屋(小松製菓)以外にも、洞爺湖わかさいも本舗「わかさいも」、 札幌 / 福山醸造トモエ味噌」、「南部せんべい」他チョコレート、 仙台 / かまぼこの鐘崎「笹かまぼこ」、 京都/美十「おたべ」、○静岡 / ホテイフーズ「やきとり缶詰」などもおおば比呂司の作品だ。
海外旅行をすると日本を見直すことになるが、おおば比呂司は「わが家を外から見て屋根の瓦が落ちているのを発見するようなものかも知れない」といい、旅を推奨する、昔の人は、山越え、川越え、ようやく宿に泊まると、その日の旅の記録をつけた。それは道中日記と呼ばれる。おおば比呂司は旅のつれづれに食味をイラストでメモしていたのだ。それがつもって、この味覚道中記になったのだ。私が毎日書いているブログは、人生の道中日記なのだろう。