連休2日目。
特別番組「寺島実郎の日本再生論」。TOKYO MX1(地上デジタル9ch)。
第5弾「コロナを超える世界観」 9月26日(土) 20時―21時。
同時刻に「エムキャス」で配信。PC、スマホで視聴可能。http://mcas.jp/
第1弾―第4弾の見逃し配信。
エムキャスhttp://mcas.jp/で「寺島実郎の日本再生論」と検索。
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毎日続けている「名言との対話」は、「命日編」「誕生日編」「平成命日編」「平成命日編2」(10月に発刊)、そして今年の「戦後編」(来年発刊)まで5冊分を書いてきた。来年は「明治編」に挑戦したいと考えている。試行錯誤してようやく資料の目途がついたので、なんとかやれる可能性がでてきた。命日にあたる人物を選んで、生涯を追い、エピソードを拾い、言葉を探し、コメントをつける。この繰り返しを続けていきたい。
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「名言との対話」9月20日。シベリウス「評論家の言うことに耳を貸してはならない。これまで評論家の彫像が建れられたことなどあったかね」
ジャン・シベリウス(スウェーデン語: Jean Sibelius [sɪˈbeɪliəs];1865年12月8日 - 1957年9月20日)は、後期ロマン派から近代にかけて活躍したフィンランドの作曲家、ヴァイオリニスト。
シベリウスは音楽の英才教育とは無縁な環境で育った。15歳で偉大なヴァイリニストになることを決意する。独学で学び、しだいに作曲に関心が移っていく。19歳からヘリシンキ大学に通いながら、ヘルシンキ音楽院で音楽を学ぶ。ヘルシンキフィルを立ち上げた剛腕の9歳上のカヤヌスは、シベリウスの才能を見抜き、国際舞台に紹介し、二人でフォンランド音楽界の全盛期を築いていく。卒業後はドイツのベルリンに留学する。そしてフィンランド一美しい少女・アイノと結婚する。
1907年には5歳上の巨匠マーラーと対面している。シベリウスは「交響曲においてはすべての動機を内的に関連させるスタイルの厳格さ、深遠な論理が重要である」としたのに対し、マーラーは「交響曲は一つの世界のようなものである。そこにはすべてが含まれていなければならないのだ」と反論した。1911年。「競争は他の者たちに任せて、私は自らの芸術を徹底的に追求しよう」と本物の音楽を求めていく。1914年のアメリカ旅行では、雄大な自然を音楽で表現しようとしたが、「荘厳で、広大で、人間の力ではどうしようもない」。マーラーは「芸術は自然よりも偉大だ」と対照的だった。
シベリウスは生涯にわたり交響曲の創作を目標にし、長い時間と多くの困難を乗り越えて作品をつくり続けた。1899年から1924年の25年間にそれぞれが独自のスタイルを持つ7つの交響曲を発表している。しかし交響曲第7番(1924年)、付随音楽『テンペスト』(1926年)そして交響詩『タピオラ』(1926年)の完成を境に残りの30年間は大規模作品の創作から遠のいてしまう。それは「ヤルヴェンパーの沈黙」と呼ばれる。完成に至らなかった交響曲第8番をはじめとして作曲の試みは継続していた。「もし7番よりもよい交響曲を書くことができなかったら、7番を最後とせねばならない」と述べていた。内的自己の純粋な表現である歌曲は100曲以上を手がけている。
1927年、年金増額と市民の寄付で経済的安定を得る。そして印税収入があるようになった。1957年、91歳没。ヘルシンキ大聖堂で国葬。国連総会でニュージーランド代表の議長はは「シベリウスはこの全世界の一部でした。音楽を通して彼は全人類の暮らしを豊かなものにしてくれたのです」と語りかけた。肖像は、ユーロ導入までのフィンランド100マルッカ紙幣に使用された。 シベリウスの誕生日でもある12月8日を「フィンランド音楽の日」として祝っている。
シベリウスは評論家から称賛と怒りの両方を集めた。独特の個性的な方法によって形式、調性そして構造に関する基礎的な問題に挑んだからだ。独創には賛否が渦巻く。評論家には銅像は建たない、創作家と評論家の違いをこれほど端的にあらわした言葉はない。気になって評論家という肩書を調べてみた。映画、文芸、広告、生け花、教育、政治、料理、危機管理、航空、音楽、野球、冠婚葬祭、技術、競馬、技術、競馬、自動車、経済、時事、美術、文学、野球、経営、ビジネス、古典芸能、外交、手帳、文明、美術、住宅技術、、、。今日ではあらゆる分野に評論家がいるが、悪口を言われている方が常に高い位置にあるのは間違いない。