「20X20原稿用紙」展(町田市文学館ことばランド)ーー作家の原稿料番付が面白い

町田市文学館ことばランドで開催中の「20X20原稿用紙」展を訪問した。

2020年に引っ掛けた企画である。著名作家たちの愛用した原稿用紙と、自筆の文字を見ることができた。 


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原稿用紙の起源は、鉄眼道光『一切経』(1678年)。20字・10行。江戸の出版文化で誕生。頼山陽は22字10行の原稿用紙をつくった。両脇に降り仮名と返り点用の細長い枠。

 明治期の作家の原稿が掲示されている。それぞれの原稿料も添えてある。森鴎外は一枚1円50銭。樋口一葉は30銭(再掲時70銭)。夏目漱石の「猫」は1回目80銭で30枚13円。10回目38円50銭。二葉亭四迷「平凡」は1枚1円。坪内逍遥2円。

漱石の自家製の原稿用紙には「漱石三房」と印字してある、デザインは橋口五葉、新聞連載用に19字。谷崎潤一郎は最高で10円。作家の原稿と一緒に原稿料を掲載してあった。

大正7年「作家原稿料一覧」が掲載されており、面白かった。

2円:坪内逍遥三宅雪嶺。福本日南。吉野作造堺利彦。1.5円~2円:島崎藤村正宗白鳥田山花袋谷崎潤一郎。1円~1.5円:泉鏡花中条百合子。1円:芥川龍之介森田草平小山内薫徳田秋声。50銭~1円:武者小路実篤鈴木三重吉有島武郎。有島生馬。80銭:与謝野晶子。70銭:与謝野寛。50銭:佐藤春夫

与謝野晶子は80銭で、夫の与謝野寛は70銭と逆転している。大正7年は1918年で、寛45歳、晶子40歳だ。26歳「明星」に「君死にたまふことなかれ」、33歳「青鞜」に「「山の動く日」、34歳、寛を追ってパリへ。帰国後、鉄幹との共著『巴里より』で、「要求すべき正当な第一の権利は教育の自由である。」と、女性教育の必要性などを説いている。寛は1908年の35歳で「明星」を廃刊後は極度の不振に陥っている。パリ帰国後に再起をかけた訳詩集「リラのはな」も失敗している。1915年には総選挙に出馬し落選。1918年は寛が慶応義塾大学文学部教授に就任する前の年になる。1918年は第一次世大戦が終結、日本では米騒動原敬内閣成立、東京女子大創立の年。この1918年で輪切りにすると、作家たちの年齢や立ち位置の関係と原稿料にあらわれる世間の評価がわかるはずだ。

谷川俊太郎赤川次郎赤瀬川源平森村誠一常盤新平井上靖田河水泡小林秀雄白洲正子遠藤周作草野心平幸田文三浦しをんなどの原稿もみた。人それぞれだが、字が上手い人はいない。

同時開催は「ニコニコ(2020)絵本原画展」。おぼまこと(1937年生)、わたなべゆういち(1977年生)、中垣ゆたか(1943年生)。 

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夜はYAMI大・深呼吸学部に遅れて参加。途中で京都の藤原先生からの電話もあり、中途半端な学びとなった。喜寿を迎えた藤原さんは8月に日本心理臨床学会(会員3万)の会長になったそうだ。身体と心の関係について深い会話となった。

「歌(短歌)は時代のエキス」「情報化社会とは情報(「メディア)の中で知り合った人と関係ができ、新しい現実を創っていく社会」「ネトウヨの構造」「芥正彦、橋川文三桶谷秀昭保田與重郎(「日本の橋)、亀井勝一郎」。

亀田さんの「食と地域」のミニ講義も興味深かった。肉、魚、果物、菓子など、地域との関連でものすごい情報量だ。真珠をつくるあこや貝が輸入のウイルスで危機、五島列島で新機軸。醤油の味は違うのに量を言いうレシピは疑問。日本独自の釣り文化を観光化、、、、。

 橘川さんの講義を聴きながら、そのテーマで自分の考えをまとめていく。「日本とは何か、日本人とは何か」。人の話を刺激として自分の考えを図解を描きながら整理していくスタイル。

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メンズ・ヨガ:1時間。昨日の疲労は解消。

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「名言との対話」(戦後命日編)10月3日。河西昌枝「あの程度の相手なら必ず勝ちます」

河西 昌枝(かさい まさえ、結婚後の姓は中村、1933年7月14日 - 2013年10月3日)は、女子バレーボール選手。

山梨県立巨摩高等学校 から バレーボール選手として、日紡関ヶ原 、 日紡足利 、そして伝説の日紡貝塚へ。河西は『東洋の魔女』の主将として1962年世界選手権優勝、1964年東京五輪でコーチ兼キャプテンとして金メダルの獲得に大いに貢献した。

当時の監督の大松博文は「鬼の大松」と呼ばれるほど徹底したスパルタ式のトレーニングで知られており、根性バレーで徹底的に鍛えた。選手たちは「回転レシーブ」という武器で拾って拾って拾いまくるバレースタイルを身に着けた。このときのことを、目に見えな積み重ねでいつかできるようになる、敢闘精神にあふれた河西は後に語っている。チームメートたちは「オリンピックが終わったら、婿は世話をする」という大松監督の言葉に安心して励んだ。

174㎝の河西はオリンピック終了後の1965年1月に日紡を退社し、5月30日に佐藤栄作総理の取り計らいで2歳年上の自衛官(172cm)と結婚した。大松監督の仲立ちで結婚したのは6人中4人であり約束は守られたのである。そして河西はママさんバレーの指導者となった。2003年3月には日本バレーボール協会の女子強化委員長に就任し、 2004年アテネ五輪では全日本女子チームの団長を務めた。2008年はバレーボール殿堂入りを果たした。

河西のことを調べるのに、『時代を創った女たち』の中村昌枝を読んだ。この本はNHK「ラジオ深夜便」のインタビューをまとめたものだ。各界で抜群の功績を挙げている女性の発言もついでに堪能した。志村ふくみ「日本人の精神の根本には色がある」。森下洋子「一日一日の積み重ねがすべて」。樋口久子座右の銘は平常心」。山田満知子「リンクの冷たい空気は、私の体の一部なんです」。今井通子「物事って、始めてしまえば思っていた以上のことができてしまうんですね」、、、。

東京オリンピックの女子バレー優勝決定戦は、家族全員で見た記憶がある。一喜一憂し、興奮してみた。 NHK[あの人に会いたい」では、「勝つためにみんなが 一つの目標に向かってやった 青春時代に命懸けでやったことが その後の人生の大きな宝物」と語っており、さわやかな印象だった。

「あの程度の相手なら必ず勝ちます」とは、ソ連戦で第一セットを落とした時に、葛西が監督に語った言葉だ。チームの中心にこういう冷静なリーダーの存在が優勝には必要だった。

ラジオ深夜便 時代を創った女たち (ステラMOOK)

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  • 発売日: 2013/10/18
  • メディア: ムック