「音楽を撮る」写真家・木之下晃のこと。次の著書の最終チェックが終了。

先週金曜日。六本木ミッドタウンのフジフィルムスクエアで「音楽を奏でる写真たち 木之下晃 世界の音楽家」展をみてきた。

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木之下は「音楽写真」というジャンルを切り拓いた写真家である。彼の写真は「音楽が聴こえる」とまでいわれた。アナログ表現にこだわり、フィルムカメラで撮り続けた。その理由は「シャッターチャンスの緊張感がもつ精神性にある」と語っている。写真家のマエストロ(巨匠)である。年間250回近くの演奏会に通っていた音楽通だ。

木之下をみる人たちは「対峙するエネルギー、シャッターチャンスを逃さない集中力。抜群の反射神経。生まれながらの資質、あくなく探求心、豊富な音楽体験」などと語っている。

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日本福祉大学で学ぶ。中日新聞社博報堂を経てフリーに。木之下晃は、1960年代から半世紀にわたり一貫して、「音楽を撮る」をテーマに撮影を続けた。木之下が撮った写真からは「音楽が聴こえる」と、カラヤンをはじめ、バーンスタインなど音楽関係者から高い評価を得ている。

会場ではマリア・カラスの写真集とバーンスタインの写真集の二つの写真集を売っていた。買うのはバーンスタインにした。

 オーケストラを指揮する神々しい姿と、亡くなった後で訪れたニューヨークの自宅の写真が中心。バーンスタインユダヤ系ロシア人の子としてアメリカで生まれた。この人は出会いと幸運に恵まれて、英雄となっていく。ハーバード大学・カーチス音楽院を卒業後すぐにンニューヨークフィルの副指揮者に就任した直後に急病となった客演指揮者の代役として大成功する。その幸運な人との幸せな出会いをしたのが木之下だった。

作詞家のなかにしれいは、バーンスタイン平和運動に熱心と語り、木之下が聞き手となって「佐渡裕バーンスタインを語る」で、バーンスタインに見込まれた佐渡裕からいろいろ聞きだしている。

1980年代後半のJAL時代に私は仕事で海外取材のお手伝をしたことがあり、以下の本を手に取って素晴らしい写真と文章を楽しんだことがある。

木之下晃の写真集では、新潮社の「とんぼの本」シリーズが私は好きだった。『モーツアルトへの旅』では、30都市以上に及ぶヨーロッパ各国のゆかりの地を豊富な写真で辿り、伝記を読みながら、天才の偉業を振り返っている。定評のある新潮社の「とんぼの本」シリーズの中でもよく売れている本だ。『ベートーベンへの旅』の旅では、ボン、ウィーン、プラハなど、ゆかりの地を写真で辿りながら振り返り、その偉業を検証している。

木之下晃は写真集など約45冊以上を刊行、写真展約80回開催以上開催した。そして海外政府からの招聘も、アメリカ・イギリス・スイス・フィンランドチェコスロバキア東ドイツ・カナダなど15回以上を数える世界的な音楽写真家だった。

次女の木之下貴子によれば、「「音を撮る」ことに全精力を注いだ人生でした」と総括している。木之下晃は「音楽を撮る」「音を撮る」がテーマであったが、映画の録音技師・杉本文雄は「映画の録音は「画にあった音を録る」というのが基本なんだ」「生きた音を録れ」と後輩を指導していたことを思いだした。「音を録る」杉本に対し、音楽写真家・木之下晃は「音を撮る」ことに生涯をかけたのだ。

2006年にはミニ文化勲章といわれる紫綬褒章を授与されている。そして3万本に及ぶフィルムは、2010年から木之下晃アーカイブスを設立しデータベース化に取り組んでいる。2015年に木之下晃はなくなったが、生涯をかけた作品は残った。佐藤一斎のいう「死して朽ず」とはこのことだろう。

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次回作「名言の暦 平成命日編」の最終チェック。本の形になっているものをチェックするので、修正箇所がずいぶんと多く見つかった。

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ジム:ストレッチとウオーキング30分。

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「名言との対話」10月11日。秋野不矩「作家は自分の創作を期して、表現にいどみ一生を過ごすのが、使命でありそれが本望である」

秋野 不矩(あきの ふく、1908年明治41年)7月25日 - 2001年平成13年)10月11日)は、静岡県出身の日本画家

 19歳で石井林響、次いで西山翠嶂に師事する。28歳、1936年文展鑑査展で選奨を受賞するなど、早くから官展で実績を積み重ね、画家としての地歩を固めた。戦後間もなく、新しい日本画の創造を目指して「創造美術」(現:創画会)の結成に参加すると、官展時代の作風から脱却し、西洋絵画の特質を取り入れるなどして、人物画に新境地を開いた。東京の山本丘人、京都の上村松皇らと「在野精神を尊重し、自由と独立をかかげ、真に世界性に立脚する新しい日本画」をめざしたのだ。秋野は日本画沢宏靱との間に6人の子を儲けている。

京都市立美術専門学校(現京都市立芸術大学)において後進の指導に当り、助教授・教授職を25年勤続して定年まで勤めた。35歳で夭折した三橋 節子は、教え子だ。

50歳で離婚し、4年後に赴任したインドの風景に魅せられ、以後インドを主題にした作品で新しい境地を開拓する。そして定年後には、長期のインド滞在を重ねる。その歳月を記した素敵な装丁の『画文集 バウルの歌』を読んだ。84歳のときの著書である。

故郷の浜松市秋野不矩美術館がある。そこには秋野不矩の次のような言葉がかかっている。「絵を描きつづけて八十余年 それでもまだ満足のいく作品が描けないのが現実だが、私もそれ故に生きてゆく甲斐があるというものであらう絵とは何であらうか。作家は自分の創作を期して、表現にいどみ一生を過ごすのが、使命でありそれが本望である」。その言葉どおり、世界性に立脚する新しい日本画の世界をつくりだした。その評価が91歳での文化勲章を受章である。享年93。

「創造美術」において、画家としての自らの使命を自覚した。それは秋野不矩の40歳の時のことだった。まさに四十にして立ったのだ。それから、50年以上創作の道を歩んだことは本望であっただろう。 

画文集 バウルの歌

画文集 バウルの歌