まだ執筆中で未刊行の本『現出する参加型社会』のZOOM読書会という不思議な企画に参加

未刊行の田原真人『現出する参加型社会』のZOOM読書会に参加。そういう読書会もあるのだ。

田原真人「生身の自分を投げ込む」「参加型社会学会」「つながりと出会いのサイクル」「外発エンジンではなく、協創エンジン」「ライブ感覚」、。。。

vimeo.com以下、私「集合知という全体知、少数意見の尊重、民主主義」「参加:参集、参与、参加、参画」「正邪、損得での選択ではなく、いきなり飛び込む」「偶然と必然と運命と」、、。

21時からは学科説明会。図解塾は石和田君からPRしてもらった。

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 あるテーマで4冊の「名言」シリーズからヒントを探している。

火坂雅志加島祥造秋山真之宮本武蔵小倉昌男中野孝次湯川秀樹石橋正二郎北杜夫吉田直哉飯田深雪

他、山本周五郎古川市兵衛、朝倉文夫石橋湛山寺山修司新渡戸稲造、ジャン・パウル坂本龍馬加藤唐九郎夏目漱石田辺茂一ミケランジェロ、マイケル・デイビス藤沢秀行ウォルター・スコット、津田梅子、リルケいわさきちひろ戸板康二江副浩正山口昌男粕谷一希ポール・ニューマン、マイケル・デイビス中村元、松尾孝、市川建夫、福田繁雄大西巨人小渕恵三清水信義、山野愛子、荻元晴彦、堀田善衛スティーブ・ジョブス山崎豊子山崎朋子石垣りん

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「名言との対話」11月8日。小森敏之「わんぱくでもいい、たくましく育って欲しい」

小森敏之(1922年3月5日ー1981年11月8日)は、日本の経営者。丸大食品創業者。

香川県高松市生まれ。今宮第五高小卒。証券会社の不破商店での丁稚奉公をしながら夜間の青年学校で学ぶ。復員後、給料の一部を両親にと8年間、社長に預けていたお金も不破商店の倒産で戻って来なかった。やがて肉を扱う水産物加工販売業に転じ、1954年大阪に魚肉ハム・ソーセージ製造販売の丸大食品工場を創設。1958年株式会社に改組丸大食品改称する。1961年畜肉ハム・ソーセージ製造を開始。全国的な分散生産体制による新鮮な製品を、独自の「小売店直販システム」によって素早く販売する方式で急成長を遂げ1963には東京に進出。「東の厚木(厚木ナイロン)、西の丸大」と言われるほど、大量の主婦パートタイマーを業界に先がけて採用し、戦力化に成功した。

息子の小森嘉之は、小さい頃から一生懸命に働く両親の姿をそばでみており、働くことの厳しさを肌で感じていた。子育てはいい意味での放任主義であり、そして「やってみなはれ」という体験主義であったと父を評している。また人への感謝の気持ちや金銭感覚などを教わっている。信心深く、「人の目を基準としない。常に天が見ていると思うこと」と言われていた。この考えは「至誠通天」という社是になっている。営業所長を毎年2~3週間アメリカへ研修旅行、パートは入社5年後から香港へ連れて行った。説明するのではなく、「行くのが一番や」という徹底した体験主義者だった。

私の故郷中津でよく買い物に行った「丸食」は丸大食品のグループ企業だったのだ。丸大食品は、現在では日本ハム伊藤ハムプリマハムと共に食肉加工業界大手4社の一角に数えられている。

1970年代のCM「わんぱくでもいい、たくましく育って欲しい」というナレーションが有名になり、当時の流行語にもなった。このCMはよく覚えている。小森敏之の「体験せぇへんかったら、分からへんやないか」も好きな言葉だが、ここでは丸大食品のテレビCMのナレーション「わんぱくでもいい、たくましく育って欲しい」を名言として掲載することにした。このメッセージは戦後日本の上り坂の時代の子育てへ向けた言葉だった、内向きとなった令和の今こそ、青少年に向けて必要なメッセージだと思う。