雑誌の対談のゲラをみせてもらう。

けやき出版の新雑誌の第2号(12月に刊行)の、長島先生と私の対談の記事のゲラをもらう。

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ウーキング中に、ユーチューブで山本周五郎浅田次郎の小説の朗読を耳で聴く。

山本周五郎「?」。・浅田次郎「終身名誉会員」

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・図解塾のまとめに着手。

・SDGs企画。

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「名言との対話」11月10日。高倉健「仕事をするというのは新しい人と出会うことですから」

高倉 健(たかくら けん、1931年昭和6年〉2月16日 - 2014年平成26年〉11月10日)は、日本俳優歌手

福岡県出身。1955年に東映に入社し、翌年に映画『電光空手打ち』の主役としてデビューを果たす。昭和を代表する大スターの一人であり、1960年代に流行した仁侠映画のシンボル的存在でもある。1978年『第1回日本アカデミー賞』では「幸福の黄色いハンカチ」で最優秀主演男優賞を受賞。以降、数多くの人気作に主演した。江利チエミは元妻。1998年紫綬褒章2006年文化功労者、第60回 菊池寛賞 2012年、2013年には文化勲章を受章した。

大学時代から、私も高倉健仁侠映画を数多く見ているが、ここでは大スター・高倉健の私の目に映った姿を時系列で追ってみよう。 

 2012年。高倉健主演『あなたへ』を観る。高倉健の6年ぶりの映画だ。パンフレットに高倉健のインタビューが載っている。しばらく映画に出なかったのは、「ただ作品を撮って、お金をもらっている生活が、とても虚しく感じてね」。この作品を終えての感想では「もっと自分は仕事をやらないといけないと思いました。仕事をするというのは新しい人と出会うことですから。出会う、というのはいいですよね」。高倉健は1956年以来2005年までの約50年間に204作品だから、1年に4本というペースでコンスタントに仕事をしている。

 2014年。高倉健主演の『幸福の黄色いハンカチ』を観賞。「もてない青年・欽也(武田鉄矢)は中古車を買って北海道旅行へ赴き、一人旅の朱美(桃井かおり)を車に乗せる。やがてふたりは謎の中年男・島雄作(高倉健)と知り合い、結局3人は旅を共にすることになる。雄作は網走の刑務所を出所したばかりで、妻の光枝(倍賞千恵子)の住む夕張へ帰ろうとしていたが…。 名匠・山田洋次監督が手がけた日本映画史上に残る名作中の名作。軽薄だが根は純な若者たちと不器用な中年男の交流は、いつしか心の旅へと転じていき、その終着地でもある夕張を彼らがめざすクライマックスは、黄色を意識させるアイテムの点在や、佐藤勝の音楽の妙もあってスリリングに盛り上がり、その後すがすがしい感動のラストが観る者の心を潤してくれている」。出演者は若い時代の渥美清を始め「寅さんシリーズ」の役者が多い。封切りは1977年(昭和52年)。当時は観ていなかった。最後のシーンでは涙が出るなど山田洋次監督の傑作を堪能した。

「週刊金曜日」で斎藤淳子は次のように語っている。1978年の福田首相時代の日中平和友好条約の締結の直後に中国で放映された高倉健主演の「君よ憤怒の河を渉れ」は、中国における外国映画史上最高の1億人の観客動員があり、この2作品が中国人の日本人観を変えた。それまでは「上にへつらい下の横柄な日本兵」が日本人のイメージだったが、品行方正で剛毅で礼儀正しく温かい日本人のイメージが中国を席巻した。高倉健の醸し出した日本人イメージの遺産がいまなお残っている。しかし、「健さん」の洗礼を受けたのは現在の40代後半以上であり、現在の若い中国人はこのブームを経験していない。文化交流の大切さがわかるエピソードだ。次は「君よ憤怒の河を渉れ」を観なければならない。多摩大同僚のバートル先生によれば、中国でなぜ高倉健が人気があるか。日本では任侠ものに注目が集まるが、中国では「幸せの黄色いハンカチ」や「君よ憤怒の河を渡れ」などの映画が大ヒットして人気があるのだそうだ。

2015年、門司港レトロの一角の旧大連航路上屋を訪問した。昭和初期の国際旅館ターミナルを改修した大きな建物。そこに松永文庫がある。全国有数の映画と芸能の資料館で、3万点の資料を保存している。現在は北九州市の施設になっているが、もともとは松永武という市井の人の個人資料館だった。1997年に誕生し、2009年に北九州市に寄贈、そして2013年に、この場所に資料展示となった。松永は1935年生まれ。60年以上にわたって映画のポスター、チケット、パンフ、シナリオ、写真、書籍の収集、そして50年続けている膨大な新聞スクラップ。このスクラップは一日3時間は費やしてきた。映画に加えて演劇、歌舞伎、文楽、歌手、落語、テレビ、三味線などが、切り抜きの対象だ。収集にあたっては、芸能人、俳優の生き様、生き方に力点を置いている。松永は19歳で京都の松竹撮影所で働き、映画監督を目指したことがある。ポスター2000枚、邦画パンフ1700、劇場プログラム1100枚、スクラップ350冊。ちょうど高倉健の特別展示をやっていた。 「映画は生きる悲しみを希望や勇気に変える力を秘めている」「この国に生まれて良かったと思える人物像を演じられるよう人生を愛する心、感動する心を養い続けたいと思います」

高倉健は大衆に人気が高かったが、一緒に映画をつくる監督や役者たちにも尊敬されていた。その理由は「往く道は、精進にして 忍びて終り 悔いなし」という役者道を進む志と同時に「スタッフや共演の方たちが寒い思いをしているのに、 自分だけ、のんびりと火にあたっているわけにはいかない」という礼儀正しさと謙虚さにある。それは亡くなった時に関係者が寄せたメッセージを読むとよくわかる。

大スター高倉健にしても、仕事が虚しくなり、もう一度仕事をするとまた元気が出るという繰り返しなのだろう。仕事というものの不思議さだ。仕事をすると、新しい人と出会う。それが次の仕事へ向かうエネルギーになる。その繰り返しが205本の映画に結実したのだ。