昨日はカフェ・ギャラリー、今日はギャラリー・カフェ「戸出克彦作陶展」。

カフェ・ギャラリー「BOJO」(南大沢)
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12席のカフェスペースと12平米の貸しギャラリー(画廊)がある。地域の人々を中心に絵画や写真の展示会を開催している。

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ギャラリー・カフェ「アルル」(町田)の戸出克彦作陶展。

戸出夫妻は金沢在住で、6時間のドライブで多摩境まで来ているそうだ。加賀友禅の久恒さんとも知り合いとのこと。
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戸出克彦は1958年生まれ。 京都芸術短期大学陶芸専攻科修了(現・京都造形大学)。祖父の戸出雅夫の代から百年続く金沢九谷を代表する作家の家に育ち、伝統に裏打ちされた上絵付けや釉薬に加え、商標登録された「釉面銀彩」など、独自の技術を用いた制作活動に取り組んでいる。そのオリジナリティ溢れる作品は、日本新工芸展や現代美術展などで高い評価を得、これまで入選·入賞を重ねてきた。
また、園児への野焼き指導や工房を開放した陶芸教室の開催とともに、発足時から運営に携わる金沢里山工房交流会における活動を通じ、地域との交流を図るほか、金沢市工芸協会理事として後進の育成にも努めている。
2019(令和元)年、金沢九谷の伝統を継承・発展させるなど、本市の市民文化への貢献を評価され金沢市文化活動賞を授与された。金沢在住。
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一番印象に残った「釉面銀彩」は、九谷焼上絵付の歴史に加わる、新たな加飾の技法だ。白磁の素地に青手九谷の盛絵具(もりえのぐ)を用いて模様を描き、一度完全に焼成した後、澄箔(ずみはく)と呼ばれる厚手の銀箔を素地の全面に貼り付け、焼成を重ねる。

銀箔は熱に弱く、焼成の際に表面の一部が消失し透けるようになる。それにより絵模様のない部分は銀箔の輝きをそのままに、絵ある部分は銀箔を透かして九谷の地色がうっすらと浮かび上がる。銀箔ごしに表れる微妙な色彩表現を狙っている。

銀箔の重なり具合により、浮かび上がる絵模様に濃淡が生じ、それが深い味わいとなっている。
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 長池公園でのミニコンサートを楽しむ。

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「名言との対話」11月22日。岩畔豪雄「それはライシャワーさんが謎をかけているんだよ。今すぐ、沖縄返還を要求しろというメッセージだ」

岩畔 豪雄(いわくろ ひでお1897年10月10日 - 1970年11月22日)は、日本陸軍軍人、最終階級は陸軍少将陸軍中野学校(後方勤務要員養成所)の設立者、京都産業大学設立者の一人。

広島県生まれ。陸軍幼年学校、陸軍士官学校(第30期)、シベリア出征を経て、陸軍大学校(38期)卒。整備局から関東軍経済参謀、対満事務局事務官と兵站および経済関係の職責を歴任した後、兵務局、参謀本部第8課と情報活動に従事。
その間に準備委員として陸軍中野学校の設立にもたずさわる。その後、軍務局軍事課高級将校を経て軍務局軍事課長と陸軍官衙の要職を歴任。
大戦を目前にした1941年初頭、米国へ出張、野村大使らと対米交渉にあたり日米戦回避のための日米諒解案を策定するも外務省の否認を受け、南方戦線転出させられた。開戦後はシンガポール攻略戦に参加、重傷を負い、回復後、岩畔機関を設立、インド独立工作にあたる。戦後は20年ほどは哲学的な思索に時間を費やした。1965年に京都産業大学の開学に関わり、初代の世界問題研究所長をつとめた。

以下、岩畔が設立した組織や機関など。

 諜外国大使館の盗聴、郵便検閲、偽札製造。防諜・謀略活動を目的とする新設の参謀本部8課(別名は謀略課)の主任として、米CIAをめざした諜報謀略を担当する地下機関を創設。

日本初のスパイ養成学校「陸軍中野学校」を設立。尾行、変装、開錠の技術を学ばせる。

登戸研究所では、殺人光線などの電波兵器の研究を行った。毒薬・生物化学兵器。リモコン戦車、風船爆弾、牛疫ウイルス、ペン銃、電話盗聴器、超小型カメラ、超縮小カメラ通信、秘密インク、パスポート、偽造紙幣までつくっていた。

満州に設立した軍需国策会社「昭和通商」を設立し、多士済々のエリートを集めた。石田礼助今西錦司、川喜多二郎、児玉誉士夫、、、。満州国大東亜共栄圏という言葉は、岩畔の作といわれる。また、東條英機陸軍大臣が示達した「戦陣訓」は岩畔の発案ともいわれる。

野村吉三郎駐米大使とともにハル国務長官との日米交渉にあたり、日米諒解案を策定したが松岡洋介外相から拒否される。帰国しアメリカとの物的戦力を比較し「もし日米が戦い、長期化したら勝算は全くありません」と述べている。東條から近衛歩兵第5連隊長に転出させられ南方作戦に従事する。インド独立協力機関(岩畔機関)の長として、中野学校出身者や松前重義、水野成などを起用し活躍する。

日本の諜報活動の事実上の総責任者であった岩畔は、「謀略の岩畔」との異名があったが、表面的には何も起きていないかのようにものごとをすすめるべきであり、「謀略」というよりむしろ「工作活動」というべきだろうと言っていた。

岩畔の仕事ぶりは、同僚や部下から「名案尽きることなく溢れ、名文章のペーパーにも変換できる奇抜な軍人」「豪気果断、俊敏、柔軟性、、。軍人離れのした逸材」と評価された。ハルは「あんな優秀な部下がいたらどんなに助かるだろう」とよく漏らしたそうだ。

終戦時にはまだ47歳であった黒岩は陸軍省調査部長職を最後に、1965年に京都産業大学理事に就任するまでのおよそ20年間を無職で通した。京都産業大学では初代の世界問題研究所長を務めた。ライシャワー駐日大使が述べた「このたびアメリカは小笠原を返還しますが、だからといって沖縄まで返せと言われたのでは困りますよ」という趣旨の発言を、愛弟子の若泉敬が岩畔に報告したところ、岩畔は「それはライシャワーさんが謎をかけているんだよ。今すぐ、沖縄返還を要求しろというメッセージだ」ととらえ椎名悦三郎につなぎ、若泉は沖縄返還交渉の黒子役として日米密約(米国の核兵器持ちこみ)を仲介を成功させた。岩畔豪雄という傑物については知らなかったが、興味を持った。『昭和陸軍謀略秘史』(日経)も手にしてみたい。