「須藤一郎と世界一小さい美術館物語」展を再訪。

「須藤一郎と世界一小さい美術館物語」展。先週金曜日に続き、妻と一緒に2度目の訪問をした。エッセイ集『世界一小さい美術館ものがたり』を読み終わっているので、前回以上に会話が弾んだ。須藤さんからは穏やかな話しぶりで来し方を聴いた。

f:id:k-hisatune:20201123140255j:image

 

 須藤一郎。1936年生まれ。東大法学部卒、第一生命に入社。29歳で紀子と結婚。

1965年、46歳のとき夫婦で伊豆の池田20世紀美術館で「菅倉吉の世界」展で衝撃を受け、作品「壺中」を購入。菅創吉はこの展覧会中に亡くなった。54歳、町田の自宅を改装し、リビング、和室、廊下を使った「すどう美術館」を開設し、「世界一小さい美術館」と呼ぶ。56歳、一郎が館長、紀子が副館長となる。

1996年、59歳、玉川大学文学部通信教育科で博物館学芸員の資格を取得。3月、NHK「日曜美術館」で「いのちのつぶやきが聞こえるー菅創吉」展が放映され、すどう美術館が紹介され2000人が押し寄せる。1998年、62歳ですどう美術館は銀座へ進出。定年退職し、二足のわらじ状態から美術館運営に絞る。2001年、64歳、エッセイ集『世界一小さい美術館ものがたり』を刊行。現在まで7版、1万部を発行。以降、ラジオ出演、海外への美術旅行を企画実施。2007年、70歳、小田原市へ美術館を移設。2020年1月、妻死去。

すどう美術館では現代美術、特に抽象画を蒐集している。抽象画は、価格が安く、また自分の見方しだいで無限の広がりがある、との理由である。

 以下、須藤さんの言葉から。

  • 貯金通帳にお金をためて数字を眺めているよりも、絵に換えて眺めるほうが、すっと人生、楽しくなりますよ。
  • 絵は世界語。
  • 真剣勝負の衝動買い。
  • 横社会にいる幸せ。
  • ずっと第一の人生を歩んでいる。
  • 人に感動を与える作品を作るには、人間としての豊かさや幅の広さが必要であり、そのためには、日ごろの生き方が重要。
  • アートはアートだけが一人歩きをするものではなく、創る人、見る人、それを繋ぐ私たちの人間関係の中に存在する。

サラリーマンが美術に目覚め、夫婦で蒐集家になり、ついには美術館を開設し、アートに関わる多くの人びととヨコの関係を結びながら、 使命感を持って80代半ばまで生き生きと生きている人の物語である。46歳の抽象絵画との出会い、54歳での私設美術館開設、62歳での銀座進出、70歳での小田原への移設、出前美術館への進化、、、。

企業でのタテ社会で仕事をし、50代半ばで美術館経営との二刀流になり、定年後は美術活動に邁進する。この人の軌跡を追うと、人生100年時代のモデルであるとの感を深くする。

息子の須藤一紀は「自分の父と母が、一時も無駄にすることなく、精一杯生きていることに敬意を抱きます」と「あとがきに代えて」で書いている。親の前向きな生き方が子どもに影響を与えていることがわかる記述だ。須藤さんの生き方は周囲に多大な影響を与えており、この人は私の定義する「偉い人」の一人だ。

世界一小さい美術館ものがたり

須藤さんがほれ込んだ菅創吉とはいかなる画家か。本名は彼末巳之助。姫路生まれ、京都で日本画を学ぶ。20歳の頃、上京し講談社毎日新聞の嘱託として挿絵や漫画の仕事をする。33歳、妻と二人の子を置いて単身満州へ。53歳から絵描きになり雅号を菅創吉に変える。58歳、妻と二人でアメリカへ渡り、ロサンゼルスとニューヨークに10年近く住む。1972年帰国。

 以下、『日本美術年鑑』より。

1905(明治38)年5月6日、兵庫県姫路市に旧高知藩士彼末亀太郎の四男として生まれる。本名、彼末己之助。12年飾磨尋常小学校に入学。20(大正9)年姫路市男子高等小学校を卒業する。父の影響により幼い時から画家を志し、秋吉蘇月に師事する。25年上京し、講談社等の図版カット、政治漫画などを描く。38(昭和13)年、満州鉄道牡丹江鉄道局に勤務し、付近を旅行し制作する。45年広島県豊田郡瀬戸田に引上げ、翌46年より神戸進駐軍に勤務。50年神戸市の家屋が失火により全焼し、東京に居を移す。この時、多くの作品を失っている。上京後2年半程毎日新聞等に挿絵を描いていたが、59年なびす画廊(東京)で個展を開き、その際出品された「夢」がその後の方向を決定する転期となり、以後ほとんど毎年、油絵を中心とする個展を画廊で開催する。63年ワールド・ビジョン総裁ピアスの招きにより渡米。ロスアンゼルス、サンフランシスコ、ニューヨークのギャラリーで個展を開き、71年にはブルックリン美術館に出品する。この間、66年アメリカ永住権を獲得する。滞米中、カナダ、メキシコを訪れ、72年ヨーロッパをまわって帰国。帰国後第一回目の個展を中井三成堂画廊(姫路)で開いた後、個展等を通じて積極的に作品を発表。76年兵庫県立近代美術館で開催された「兵庫の美術家・県内洋画壇回顧展」に「乾坤」「回生」が招待出品され、82年には静岡県伊東市池田20世紀美術館で「菅創吉の世界」展が開かれた。画家の死はこの会期中のことであった。滞米中から手がけたコラージュ、アッサンブラージュは晩年にオブジェ、彫刻を製作するまでに展開し、画材、形式ともに枠にとらわれない制作態度を貫いた。簡略化されたユーモラスな形と渋い色彩による画面の中に、物や行為についての認識の再検討を促す鋭い洞察がこめられている。

 ーーーーーーーーーーーーー

夜はデメケンのミーティング:オキュラスを注文したから明日届く。リアルとリモートとバーチャルの3つの世界へ。中老の星。恩人戦略。、、、、

ーーーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」11月23日。倉田洋二「戦友の墓守をしたい」

2019年11月23日死去(老衰) 92歳

倉田洋二(1927年ー2019年11月23日)は、海洋生物学者
1941年、14歳の時に南洋庁水産試験場職員として生物研究のためパラオに渡る。その年に太平洋戦争が勃発した。1944年、戦況悪化に伴い現地召集され、パラオアンガウル島守備の任に着いた。9月、米軍はアンガウル島に上陸。地獄のような戦闘が繰り広げられる。玉砕を禁じられ、終戦後約2年間も、小さな島でゲリラ戦を挑み、アンガウル島の動植物を食べて生き延びた。アンガウル島で戦った約1200人の日本兵の中で生還した約50人の1人となった。

戦後、東京都職員としてウミガメの食用研究を進め「カメ博士」と呼ばれた。小笠原水産センター所長などを務めた。

退職後の1994年、「戦友の墓守をしたい」とパラオへ移住した。パラオには1953年に建立された「戦没日本人之碑 日本国政府 内閣総理大臣 吉田茂」という碑など、慰霊碑26基と観音像が日本の方向を向いて建てられていた。2008年に移転を求められ、倉田は日本で募金活動を行い、寄せられた350万円ですべて移設し、平和公園として整備し、戦友たちの墓守としての役割を果たしている。

倉田は2015年の天皇・皇后両陛下のパラオでの慰霊に、戦死者名簿を携えて立ち会っている。4年後の2019年2月の宮中茶会に招かれてたとき、「戦友に代わり、もう一度『ありがとう』と伝えたい」との思いから、「陛下にお会いできるのもこれが最後と思い、やってきました」と語った。11月に92歳で逝去。

第二次大戦中の激戦で亡くなった戦友を偲んで、戦後日本の再建に邁進したり、慰霊をなぐさめるために小説に書いたりする人を多く見てきたが、墓守として現地に移住までした人を初めて知った。風前の灯だった戦友の慰霊碑を守り、平和公園を整備したことによって、彼らの魂は安らかに眠ることになったのだ。合掌。

「陛下にお会いできるのもこれが最後と思い、やってきました」
「陛下にお会いできるのもこれが最後と思い、やってきました」