渡辺京二(90歳)のZOOM講演「寄る辺なき時代を生きる」

NHK文化センター主催の渡辺京二「寄る辺なき時代を生きる」という講演会をZOOMで聴いた。名著『逝きし世の面影』の著者で、故郷の熊本に住んでいる。1930年生まれで90歳。ライフワークに挑んでいる姿に感銘を受けた。

  • 「こんなに美しい世界の生まれてきたのだよ」「農業時代以降、問題の無い時代はなかった」「今の生活保護者の生活は、昔の王侯貴族の生活です。コンビニの米、海苔、、。この現代の50年がつくった福祉社会は大した社会だ」「人間が生物であることを忘れている。脳だけの人間になった」「ツルツル世界から、古いもの、伝統のあるザラザラ世界へ」(加藤秀樹)「ネット社会は妬み、噂の井戸端会議」「昔の人は自分の生き方を持っていた」漱石「中央集権による富国強兵。そうしないと生きていけないからそうなっただけだ。上滑りの近代化だった」(お上がつくったのではない。「ひらがなの国」は民の世界)池辺三山「政治家には日本をよい国にしようとした人はいない」(伊藤博文は殺人犯。放火犯。給与の3重どりなどやりたい放題)「大国志向になってしまった。ナショナリズムが強くなってきた」如是閑「庶民世界が徐々にしか変わらなかったから乗り越えられた」「昔の人は小粒でもよく本を読んでいたよ。新しい国をつくろうとしていた」
  • 「国家は必要悪だ。義務は果たすが政府に頼ってはいけない。自分たちで世界をつくること。お役所言葉、マスコミ言葉を使わない。自分の言葉を使うこと!」「幸せは自分がつくるもの。そのためには広く勉強すればよい、そして自分の考えを持つこと。人の頭に占領されないこと。納得して考えること」
  • 「文章を書くことは人からデコボコに叩かれること。叩かれたらいいのだ。あいまいの言わない。オブラーとに包まない。長くしゃべらない。前置きが長すぎる」「文章は、最初から驚かす。そして緩め、また驚かす。叩かれることを恐れるな!生活語で自分の考えをしゃべろう!」
  • 「最後の仕事として、維新史を書きたい。来年に新聞連載、再来年の第1巻か。全10巻くらいになる。買い込んだ本数千冊をを全部読まねばならない。1日1冊でも360冊。ノートはとるが忘れる、字が読めない。途中で終わるだろう。書けるとこまででいいや」「明治維新は上からの緊急避難だった。庶民の日常世界とは関係なかった。下からの維新、下からの近代化を書きたい。庶民からの視線を代表するものを書きたい。何人かの思想家を追っている」

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吉祥寺:石和田君と昼食。福島さんと懇談。

荻窪:出版社に寄る

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夜はYAMI大学祭。ZOOM。100人が参加。、、

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「名言との対話」12月21日。曽宮一念「火のやまはすがたやさしむねときめいて地鳴 空に色よい文字で迎える肌も心もあたたか世の山の神たち火のじ姫をまねてくれぬか」

曾宮 一念(そみや いちねん、Somiya Ichinen 1893年9月9日 - 1994年12月21日)は、日本の洋画家随筆家歌人

東京美術学校で、藤島武二黒田清輝に指導を受ける。卒業後は山下新太郎に師事し、中村彝に兄事する。1914年、文展褒状、1925年、二科展樗牛賞を受賞、二科会独立美術協会所属ののち1946年に国画会会員となる。1945年に度々作品の題材を得ていた静岡県富士宮市に移住して以降、50年以上同地で過ごした。 「平野夕映え」「裾野の雲」などの風景画で知られる西洋画家。

1959年に『海辺の熔岩』で日本エッセイスト・クラブ賞受賞する。そして同年に66歳で緑内障により右眼を失明。1963年、70歳で右眼摘出手術、左眼も10年で失明の宣告を受ける。1965年、視力障害のため国画会を退く。1971年、78歳で両眼失明により画家を廃業。以降文筆や書、へなぶり(狂歌)をはじめる。曽宮は鉄製の枠を使って文字を書いた。

1972年の『白樺の杖』刊行以降、 『夕ぐも』『みどりからかぜへ』『砂上の画』版画集『窓』詩画集『風紋』『夏山急雨』歌集『へなぶり 火の山』『武蔵野挽歌』歌集『雁わたる』『火の山巡礼 大沢健一編』『画家は廃業』、1992年の画文集『九十九の店じまい』まで刊行しており、著書は30冊を超えている。

並行して絵画の天覧会を精力的に開催していく。文藝春秋画廊にて「曽宮一念書画展」。浜松市美術館にて「曽宮一念画業展」。常葉美術館にて「曽宮一念展」。梅田近代美術館にて「曽宮一念・孤高の詩情展」。 佐野美術館にて「曽宮一念 素描淡彩展」(致道博物館へ巡回)。静岡県立美術館にて「静岡の美術I 詩情の洋画家 曽宮一念」展。東京都庭園美術館にて「牧野虎雄・曽宮一念展」。そして 1993年には常葉美術館にて「曽宮一念・百寿展」も開いた。

1994年、心不全のため死去する。享年101。妻・せつも一念の死の3日後に死去している。本人の遺志で遺体は日本医科大学献体され、葬儀、告別式は行われなかった。没後も、各地で企画展が間断なく多数開催されていて、今年2020年には静岡市ギャラリー佐野にて曽宮一念淡彩画展が開かれた。

2019年の特別企画展 鹿児島市制130周年記念「没後25年 曽宮一念展 溶岩と噴煙を愛した色彩の画家」展では、「夕雲はけしの花のようにそらに浮かんでいた」「川ぞいの越後片貝かやごろもほのかに甘し」「きょうあらし去りみにそしむ遠空」の書と、桜島を詠じた「火のやまはすがたやさしむねときめいて地鳴 空に色よい文字で迎える肌も心もあたたか世の山の神たち火のじ姫をまねてくれぬか」という書が展示された。

本業であった画家として致命傷であった失明後もへこたれず、それ以降四半世紀に近い長い期間、短歌、狂歌、書、随筆などで優れた表現者として存分に生き、その活動は101歳まで続いている。このセンテナリアンの圧巻の表現者人生から学ぶことは多い。