太宰治展示室(三鷹)。ベルナール・ビュフェ展(渋谷)。らんぶる(新宿)。

三鷹三鷹市美術ギャラリー太宰治展示室」。

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辻音楽師。衣食住に興味なし。手紙魔。絵がうまい。納税額で狼狽。佐藤一斎。桜桃忌。蔵書なし。小机。1日5枚。

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渋谷:東急Bunkamura美術館の「ベルナール・ビュフェ展」。

構図。愛する女。自死。日本に美術館。

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新宿:日販の柴田さんと面談。電子化。音声。読み上げ。コロナ助成。FBグループ。note。執筆・編集・出版・流通。鮎川財団。雷鳥。、、、。

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「名言との対話」12月22日。黒澤丈夫「最も留意すべきは、私心をもたないことです。自分中心の欲望を他人に感じさせる行為が、公務に携わる者として最も戒めるべきことだと思いますよ」

黒沢 丈夫/黒澤 丈夫(くろさわ たけお、1913年大正2年12月23日 - 2011年平成23年12月22日)は、大日本帝国海軍士官操縦士政治家

海軍兵学校(63期生)卒。13年の海軍生活を経て、31歳で終戦を迎える。群馬県上野村に帰農し、1965年、51歳で上野村村長に就任(父も村長)。1985年8月12日、日航ジャンボ機の御巣鷹の尾根に墜落。1986年、財団法人「慰霊の園」を設立。1995年、全国町村会長に就任。2005年、10期40年をつとめた村長を退任。2011年、97歳で逝去。

黒澤村長の精神をつくった広島の江田島海軍兵学校はどのような教育をやっていたのかを黒澤の発言からみてみよう。「科学者たる武人を養成するに在り」が教育理念である。悠久の歴史に生起するさまざまの事柄の原因と結果を研究し大和民族への教訓を引き出すという姿勢を学んだ。また禅寺では陰徳を積むことを学んでいる。黒澤は自己を鼓舞しようと戦闘機乗りになった。

1869年(明治2年)創立からの77年間で11182人を卒業生を出している。戦死者は4012人。黒澤の同期70人のうち5割以上が戦死している。海軍兵学校が優れた教育機関だったのは、生き残った人材の戦後の活躍からわかる。黒澤もその一人だ。

黒澤の故郷・上野村群馬県でも飛び抜けて交通の不便な村だ。1985年の 日航ジャンボ機墜落事故は、上野村御巣鷹山の尾根で起こった。将軍の鷹狩り用の巣鷹を捕えるために指定された山で、天然林がゆたかな山であり、当初の捜索は混乱した。この未曽有の大事故では520人が犠牲になった。上野村としては、「県警の補助役に徹する」とし、「村民が陰徳を積む機会」ととらえていた。上野村消防団員の活躍は、道徳水準の高い村をめざした結果と評価が高かった。翌年には「大事故の戒めを末代に伝えて、万民と共に空の安全を希求」しようと、財団法人「慰霊の園」を設立した。慰霊と戒めの施設である。

JALでこの大事故の対策にあたっていた私は、立派な村長さんだと尊敬していた。今回、上毛新聞の藤井浩が書いた『誇りについて 上野村長 黒澤丈夫の遺訓』(上毛新聞社)を読んで改めてその感を深くした。

村長に就任した黒澤は「村民が自分に誇りをもつこと」から始めようと考え、「栄光ある上野村の建設」を目標に「健康、道徳、知的、経済」の水準が高い村をめざした。「おのれの至らなさを自覚しながら反省しつつ、他人のことに心を傾ける」。それが成長のエンジンとなった。「理想の上野村を実現しようとする情熱と勇気が青年のごとくある」。いつまでも「青二才」であろうとした。市町村合併には反対だった。みんなが協力し合って生きるのが自治体であり、自治体は人口が少ないほどいいという考えだった。上野村は今も村である。共同体としてすべて村でやっていこうという「自助」の精神。共同体内では「共助」、どうしてもできない部分は県や国が「公助」にやってもらおう。上野村に自然とともに生きる「日本」を残そうとした村長を、村民は「日本一の村長」と誇りにした。1955年に4853人いた村民は2002年には1700人、2012年に1400人弱、2020年現在で1068人だ。その黒澤にしても、過疎は止められなかった。

黒澤丈夫のいうように、公務だけでなく、人を導く立場にある人の最も戒めるべきは「私心をもたないこと」だ。それが本来の日本ではなかったか。その日本が崩れようとしている。それが本当の危機である。

 

 

誇りについて―上野村長 黒澤丈夫の遺訓