今年の文化勲章、文化功労者の言葉から。

10月28日の新聞記事。

文化勲章

  • 橋田寿賀子(脚本家、95歳)「多くの女性脚本家が活躍している。それだけは私が開拓したと自負している」
  • 澄川喜一(彫刻家、89歳)「半分は木が作ってくれる。素材と対話しながらの共同作業です」「自分がこうしたいと思っても木が嫌がることがある。今でも木から教えられることが多いです」

文化功労者

  • 三枝成彰(作曲家、78歳)「才能はない。人の3倍努力した」「全部で十何年かかる。(上演まで)生きているのは無理でしょうね」

文化勲章の奥田小由女(人形作家。83歳)は、同じく1984年の文化勲章奥田元宋(画家)の妻。夫婦で文化勲章は日本初、広島県三次市に「ふたりの美術館」。

久保田淳(日本文学。87歳)。近藤淳(物理学、90)。

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「名言との対話」12月25日。ダン・池田「草を刈る人、野の果てを見ずという。見なければいいのか」

ダン池田(だん いけだ、本名・池田 啓助1935年4月11日- 2007年12月25日)は、日本バンドマスター・ラテンパーカッション奏者・指揮者タレント

中央大学中退。1969年、「ダン池田とニューブリード」というバンドを結成。フジテレビ系『夜のヒットスタジオ』のカラー放送開始と同時に専属バンドとなり、『オールスター家族対抗歌合戦』・『スターどっきり報告』・『オールスター水泳大会』、『ズバリ!当てましょう』などに出演。『NHK紅白歌合戦』(NHK)では1972年1984年まで13年間に渡り指揮者を務めた。ひげがトレードマークの人気指揮者だったので、名前と笑顔と優れた演奏は私もよく知っている。

1985年、告発本『芸能界本日モ反省ノ色ナシ』を出版し、70万部のベストセラーになった。芸能界の内情を暴露したことで追放される。田原俊彦近藤真彦松田聖子早見優柏原芳恵など当時のビッグアイドルの恋愛やタブー話を書いた。

30年間にわたり、芸能界の裏も表も、上も下も、内も外も、すべてを知り尽くしたダン50歳の池田の日記を編集した本だ。「はじめに」には、芸能界に「天誅を加える」と書いている怒りの書である。

600人の新人歌手がデビューし、翌年まで残るのは5人。その翌年には1人か2人。それがアイドル・ゲームだ。ダン池田からみて点が辛いのは、石田あゆみ、早見優、シブがき隊、チェッカーズ、サザン・オールスターズ、今陽子八代亜紀松田聖子千昌夫坂本九。高いのは、石川さゆり都はるみ山口百恵中森明菜細川たかし五木ひろし。カネで左右される賞の内実、オーディデョン番組のインチキさなどを執拗に暴露する。

芸能界という伏魔殿で、バンドマスターは、侮辱され、恥辱にまみれ、屈辱の毎日を送る。有名にはなったが、家一軒持てない。飼い殺しのハムスターだ。バンドで400万円の収入があっても、18人で配分するから、バンドマスターは50万円以下となる。先輩のスマイリー小原、チャーリー石黒などの悲哀もでてくる。ダン池田によれば、マスコミは低俗、視聴者はバカ。だからテレビはアホ製造機だとなる。

芸能界を語りながら、太宰治「世間でよいといわれ、尊敬されている人たちは、みなウソつきでニセ者だ」(「斜陽」から)などこういう言葉がときおりでてくる。ダンは読書家だった。

過去を振り返らない。バンドマスターは捨てて、自分の食い扶持は自分でかせぐ。行く手には海が洋々と広がっている。「日の光をかりて照る月たらんよりは、自ら光を放つ灯火たれ!」という森鴎外の言葉のとおりに生きていこうと決意の船出だった。

冒頭にあげた言葉には「手もとの楽譜だけを見ていればいいのか。ちきしょう。いまに見ていろ!」と続く。その結果、芸能界の怒りを買い、追放の憂き目にあい、ディナーショーなど単発での仕事をマイペースでこなしたり、芸能事務所を設立して演歌歌手をデビューさせたりした。また住まいのあった埼玉県で開業したバー「ダン池田の店」でマスターをつとめていた。

出版から20年以上経って、ダン池田が亡くなったときの、新聞記事が今回読んだ古本に挟んであった。芸能レポーター梨元勝は「われわれでも10知っているうちの7しか話さないが、ダンさんは全部言っちゃった」とインタビューに答えている。追放されたダン池田は、「日記を出版社の社長に出さない?って酒の席で口説かれた。してやられた」と話しながら、「後悔はしていないよ」と語っている。男の意地だろう。

芸能界本日モ反省ノ色ナシ (〔第1弾〕)