あけましておめでとうございます。
近所の日枝神社で娘、息子の家族たちと初詣。御神籤は「小吉」。
「春くれば ふりつむ雪もとけるべし しばし時まて 山のうぐいす」
運勢「物ごとひかえめにし心ただしく身をまもりてあまり進みてなさぬがよろし
よからぬ人にさまたげられて思はぬあやまちをなすことあり 交際は十分注意すべし」
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過去に積み上げたものの継続と未来をにらんだ新世界の開拓へ向けて日々を生きる。これを2021年の方針としたいと思います。その際に御神籤の「運勢」を念頭において慎重に進みたい。
継続:『図解コミュニケーション全集』2巻以降の発刊。「人物記念館の旅」に企業博物館も加え1000館を目標に歩む。大手出版社から2冊の出版。
新世界:図解塾。クラウドファンディング。VR(ハバーチャルロアリティ)。学会。会社。、、、、、。
毎日早朝に書き続けている「名言との対話」は6年目に入ります。「命日編」「誕生日編」を経て、ここ3年は「平成命日編」「平成命日編2」、そして昨年は「戦後命日編」に取り組みました。今年は「大正から昭和へ」とし、大正から昭和初期に生まれた人を対象とすることにしました。私の父は大正12年、母は昭和2年生まれで、父母と同時代に生きた人たちを取り上げて、その世代のことを考えるという趣旨です。
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「名言との対話」1月1日。三浦洸一「空に伸びろ青年の樹よ。森に育て青年の樹よ。国を興せ青年の樹よ」
三浦 洸一(みうら こういち、1928年1月1日 - )は、日本の歌手。
神奈川県三浦市三崎の浄土真宗最福寺の三男として生まれる。東洋音楽学校卒業後、1952年ビクター入社。芸名の三浦洸一の三浦は三浦半島の生まれであることからつけられた。洸一は、この世界で「ピカ一」になれるようにと「光一」となる予定だったが、既に他社の同名の歌手がいたため、この世界は水物だからという意味で「洸一」に変更となった。
三浦は名作曲家吉田正に師事し、1953年5月「さすらいの恋唄」でデビュー。吉田学校の第1期生だ。同年9月発売の「落葉しぐれ」で一躍スターダムにのしあがる。1955年の「弁天小僧」、1956年の「あゝダムの町」「東京の人」がヒットする。1957年には川端康成作品をモチーフにした「踊子」がヒットし、「街燈」等文芸を材料とした文学的香りの作品を多数発表し、「文芸歌謡の第一人者」と呼ばれるようになる。男性的なテノールの実直な唱法で歌う上品さがうけた。企業の社歌や自治体が制作する音頭などの吹きこみ依頼も多かった。紅白歌合戦には1955年に初出場。その後、1957年からら1963年まで連続出場を果たす。39年の落選時には物議を醸し出したほどの人気歌手だった。
1983年にはフジテレビ系のバラエティ「森田一義アワー笑っていいとも」にレギュラー出演し、飄々とした朴訥な人柄で、人気が高かった。2000年、レコード大賞功労賞受賞。2008年にはビクター創立70年記念行事の一環として、レコードデビュー55周年を祝い、2枚組のCDアルバムが発売されている。
佐伯孝夫作詞・吉田正作曲「東京の人」は都会歌謡の名曲だ「並木の甘えのトレモロを テラスの椅子でききながら 銀座むすめよ なに想う」。文芸歌謡のハシリの「踊子」は、「さよならも言えず 泣いている 私の踊子よ、、、 ああ 船がでる、、」も耳に残っている。
石原慎太郎作詞・山本直純作曲「青年の樹」。1961年から翌年にかけてテレビで79回放映された番組の主題歌だ。三浦洸一の力強い歌声は「雲が流れる丘の上 花の乱れる草むらに 、、」から始まる。公募で選ばれた勝呂誉のデビュー作だ。確か森繁久彌が主人公の父親役で初回の東大入学式当日にやくざに絡まれてステッキで応戦する役だった。ユーチューブで歌声を聴いてみた。「若き希望と夢の苗」「あつき心と意気地持て」「我らをおきて誰かある」などの言葉が散りばめられている。60年代の高度成長を目前の時代の30歳前の若き石原慎太郎の詞は青年の希望と自負に満ちている。三浦洸一の澄みきった歌声の歌は、まだ少年だった私の志を刺激したことを思いだした。歌は偉大だ。