一都3県の緊急事態宣言の初日ーー午前は多摩で授業。午後は都心の出版社。

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緊急事態宣言最初の日。

授業の後、永田町の大手P出版社で新刊本のための会議と取材を行いました。15時からは事前の打ち合わせ。16時から、IT企業につとめる50代のビジネスマンをモデルにして、「人生鳥瞰図」をもとに取材と質問。ある程度、自由に語ってもらい、後で質問して補足ししていくというやり方がいいことがわかりました。「3勝1敗」「エニア2番」「価値観の明確」「関心の変化」「能力の拡充」「転職と天職」「衰退と完成」「失敗の効力」「年齢考」、、、。版元の部長、編集者、ライター、私と4人で取材するという充実した2時間となりました。人生鳥瞰図の威力を再確認できた取材となりました。いい本になると思います。

京都の藤原先生から電話あり。『図解コミュニケーション全集』第1巻到着の御礼。

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午前は今年最初の「立志人物伝」の授業。緊急事態宣言でリモートに移った受講生が多く出るが、授業の形態は何とか維持できました。

リレー講座の寺島学長「2021年の展望」の解説。人生鳥瞰図の説明と事例を紹介(柳井正・飯田亮。学生の作成した岡本太郎イチロー野口英世の人生鳥瞰図)。パワーポイントを使った図解の作り方の解説と実習。ボイス(授業評価)の実施。

昼休みは樋口先生、久米先生と定例の雑談会。

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「名言との対話」1月8日。佐々木良作「政治家と国民とは写し鏡のようなものである」

佐々木 良作(ささき りょうさく、1915年大正4年1月8日 - 2000年(平成12年)3月9日)は、日本政治家

京都大学を卒業し,1939年に国策会社の日本発送電に第一期生として入社。以後、労働運動に身を投じる。1947年(昭和22年)の参院選に無所属で出馬して全国区8位で初当選(32歳で最年少)するが、1期限りで参院議員を退任した。 電源開発での総務部長を経て、1954年退社し、1955年の衆院選旧兵庫5区から右派社会党公認で出馬し当選。以後、連続12選する。1959年日本社会党をら離党し1960年に民主社会党結成。1977年第4代民社党委員長に就任し、1985年まで務める。社会党江田三郎公明党の矢野絢谷也と社公民路線を主導した。中曽根再選に反対する「二階堂擁立劇」では、公民との連立の模索した。このあたりの活躍は、私は新聞紙上でよく見かけた。明るい論客という印象だった。

古本で佐々木良作『小田原日記』(日経)を読んだ。日経新聞の「私の履歴書」に加筆した本である。この本の表紙を開けると、著者のサインがあった。なかなかの達筆である。豊岡中学では補欠の一番で入学し、旧制松本高校では試験日を間違え追試で入学するというエピソードを語っている。高校で手塚先生から俳句を学ぶ。恩師の手塚は「筋の正しい俳人」だと評している。俳号は良素。句集も『野分』『鳥雲に』がある。

 秋空や仰ぎ天の字書きてみし  新年は動中静と構えたり 今年こそ忙中閑と筆始め

佐々木はメモ魔だった。常に3種類のメモ帳を持っていた。一つ目は仕事に関するもので予定、活動、感想。二つ目は「小田原日記」で自己告白の日記。3つ目は仕事以外のひとりごと帳のメモ・ノート。多忙な日々を送りながら、自己を保持し続けようというした人なのであろう。

「青年諸君よ、安全株のみ買おうと考えるな」とのメッセージを語る佐々木良作は、「尊敬する人」として政治家を挙げる人が少なくなったという。選挙の済んだその日から、毎日毎日が次の選挙のための運動の連続であるとし、政治家稼業、票乞食という言葉も用いて理解も求めている。国民それぞれは独自の要求を持っており、政治活動には無限といってよいほどの経費がかかるのであり、それが不正の源だ。それを認めたうえで、政治家と国民とは写し鏡のようなものであるという。やはり、この国民にしてこの政治家なのだ。それは今も変わらない。近年の政治の状況は、国民の劣化の反映に過ぎないということだろう。危機は一段と深まっていると感じる日々である。

小田原日記 (1980年)