「好奇心」紀行。

星新一(SF作家)「「学問のもとは、好奇心。好奇心を育てるようにしておけば、優れた人物も、自然に育ってくる」

緒方貞子政治学者)「人間は仕事を通して成長していかなければなりません。その鍵となるのは好奇心です。常に問題を求め、積極的に疑問を出していく心と頭が必要なのです」

戸塚洋二(物理学者)の妻「主人は好奇心旺盛な研究者でした。、、私がミシンを踏んでいると、ちょっと見せてとそのミシンを分解する。花や樹木を見ると、何であの花はあんな形なのかと子どものような疑問を持ち、そのことを調べ始める。研究が好きで、現場が好きで、3度の食事より仕事という人でした」

清水俊二(映画字幕翻訳家)「映画を愛していること、話し言葉に熟達していること、それに雑知識に好奇心を持っていることがすぐれた字幕翻訳者の条件だ」

外村彰(物理学者)「〝原因探し〟や〝謎解き〟こそが、研究の醍醐味だと思うからです。、、、努力し続ける原動力になるものは、「好奇心」だと思います」。

衣笠貞之助 (映画監督)「女形役者をしながら、好奇心で何でもためしてみる。脚本、撮影などのかんどころがだんだんわかってくると、自分の脚本で自分の作品を作りたくなる、そのチャンスが巡り、脚本・監督・主演という映画をつくってみている」

吉野彰(研究者)「無駄なことをいっぱいしないと新しいことは生まれてこない。自分の好奇心に基づいて新しい現象を見つけることを一生懸命やることが必要」

三木たかし(作詞家)「自分は偉大なる素人で、好奇心を持って何か空から自分の体に降ってくるものを僕は書きたい」

羽に未央(エッセイスト)「日本では、若い人が早いうちから好奇心を疲弊させてしまっている。生きていることって、もっと単純におもしろいことなのにって、日本に来るたびに感じます」

谷川健一民俗学者)「権威主義の学問はいずれにしても硬直をまぬかれません。それは知識の死滅につながります。そこに生気をあたえてよみがえらせるためには、在野の精神が必要なのです。またアカデミズムが眼をむけなかった分野へのあくことのない好奇心が求められるのです。そうした未知の世界に進むには、既成の尺度は役に立ちません。そこでは独創の精神が不可欠です。独創ということに焦点をあてると、独創的な大きな仕事をした者はみんな独学者です」

多田富雄(免疫学者)「君と一緒にこれから経験する世界は、二人にとって好奇心に満ちた冒険の世界なのだ」

福井謙一(物理学者)「他分野にも好奇心を持つことが創造に繋がる」

松本清張(小説家)「 疑問のところをとらえて、それを深く突っ込む。だから調べていく。探索していく。これがまた、自分の好奇心を満足させるわけです 」「好奇心の根源とは、疑いだね。体制や学問を鵜呑みにしない。上から見ないで底辺から見上げる」

小松左京(SF作家)「年代を超えた人のつながりをもっと強くして、知らないことやおもしろいこと、人間にとって大切なことに接するようにしないと、私たちの世代は子供たちの好奇心には追いつけません」

遠藤周作(小説家)「遠藤周作をもし人生に好奇心を抱く男の名とすれば、孤狸庵はさしずめ生活に好奇心をもつ男の名であり、この二つの名が矛盾せずに私の顔にペタリとはりつけられている」

阿刀田高(小説家)「好奇心紀行」

諸橋晋六(経営者)「好奇心と行動力がなければ話にならない」

金子兜太俳人)「俳句を作り、さまざまな人の俳句を選ぶという人生はその一日一日、いや一瞬一瞬に発見があります。好奇心が刺激され、一一刻一刻、毎日が新鮮なのです」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」1月12日。神谷美恵子「どこでも一寸切れば私の生血がほとばしり出すような文字、そんな文字で書きたい、私の本は。、、、、体験からにじみ出た思想、生活と密着した思想、しかもその思想を結晶の形で取り出すこと」

神谷 美恵子(かみや みえこ、1914年大正3年)1月12日 - 1979年昭和54年)10月22日)は、日本の精神科医哲学書・文学書の翻訳やエッセイの著者。

岡山市生まれ。国際労働機関の日本政府代表として赴任した父・多門はスイスのジュネーブに滞在している。多門は後藤新平門下の官僚で両親の結婚式の媒酌人であり当時国際連盟事務次長を務めていた。小学生の恵美子は新渡戸から大きな影響を受けている。海外生活で「読み書きと思考は今でもフランス語が一番楽である」というまでになった。津田英学塾本科へと進学し文学を専攻し、1935年に首席で卒業する。コロンビア大学留学。医学の道に進もうと決心し、1944年東京女子医専卒の卒業(首席)の前年に岡山県ハンセン病施設長島愛生園で12日間を過ごす。東京大学医学部精神科に入局。

多門は東久邇宮内閣において文部大臣に抜擢され、美恵子はその仕事を手伝うために、父の秘書としてGHQとの折衝および文書の翻訳作業などに従事する。後任の安倍能成大臣の要請で文部省における仕事を続け、事務嘱託の身分でGHQ教育情報部との折衝にあたった。

東京帝国大学理学部の講師を務めていた植物学者の神谷宣郎結婚する。1949年に夫の宣郎は大阪大学教授に招聘され一家は大阪へと移った。主婦として多忙な生活を送る一方で、以前愛読したマルクス・アウレリウスの『自省録』の翻訳書を創元社から出版した。

大阪大学医学部神経科勤務を経て、 1957年に、長島愛生園におけるハンセン病患者の精神医学調査を開始した。この業績をもとに1960年大阪大学で学位を取得、神戸女学院大学の教授に任命され、さらに1963年からは母校の津田塾大学教授に就任した。1965年からは、長島愛生園の精神科医長にも就任している。

神谷美恵子は医学の分野はもちろんのことだが、「ものかき」としての業績も大きい。

 マルクス・アウレーリウス(121-180)の『自省録』(神谷美恵子訳・岩波文庫)をめくってみた。21歳の療養時から原語で読み続けた本である。大ローマ帝国の皇帝であり、同時に哲人であった人が、原題が「自分自身に」とあるように、多忙な公務の合間に自分にあてて書いたものだ。1948年9月末日に書いた「訳者序」では「母親としての多忙な生活のほんのわずかな余暇をさいての仕事なので、意にみたぬことのみ多い」と記している。長男の子育ての最中の32歳であった。

「君の肉体がこの人生にへこたれないのに、魂のほうが先にへこたれるとは恥ずかしいことだ」「宇宙の中のありとあらゆるものの繋がりと相互関係についてしばしば考えてみるがよい」「君の分として与えられた環境に自己を調和せしめよ。君のなかまとして運命づけられた人間を愛せ。ただし心からであるように」「この世で大きな価値のあることはただ一つ、嘘つきや不正の人びとにたいしては寛大な心をいだきつつ、真実と正義の中に一生を過ごすことである」「自分の内を見よ。内にこそ善の泉があり、この泉は君がたえず掘り下げさえすれば、たえず湧き出るであろう」「完全な人格の特徴は、毎日をあたかもそれが自分の最後の日であるかのごとく過ごし、動揺もなく麻痺もなく偽善もないことにある」「君」とあるのは自己に対する呼びかけであり、この書は自己との対話ともいうべきものだ」。この人の誠実で気高い倫理観には感銘を受ける。

そして1965年にはみすず書房から『生きがいについて』を出版し多くの人に感銘を与える。「生きがい論ブーム」を巻き起こした書で、今も読み継がれている名著だ。

『文芸別冊 神谷美英子』(KAWADE夢ムック)を読んだ。生誕100年記念の永久保存版である。「存在の根底から湧き上がってくるもの」「自分がしたいことと義務が一致すること」「使命感に生きること」。「 そもそも人間は社会に役立たなければ生きている意義がないのであろうか」「人間が最も生きがいを感じるのは、自分がしたいと思うことと義務とが一致したとき」「使命感を持つ人は気を散らさず、こつこつと、根気よく歩いて行く」「一生のあいだ、道を求めて歩きつづけるのが人間というものなのだろう」「自己の内部にひそんでいる可能性を発揮して自己というものを伸ばしたいという欲求が大きな部分を占めている」、、。

子ども達への手紙にはこの人の愛情こまやかな母親ぶりがしのばれる。長男律は1947年生まれ。東大紛争時の東大生だ。「へや(書斎)にふさわしいだけのものを書かなくては、と思います。この頃毎日一件づつ講演依頼をことわって「ものかき」になる決心をかためました」「私はもう「自分の畑をたがやす」ことに専心します」、、、。

私が2019年に訪れた山梨県春日居町の小川正子記念館ではハンセン病に尽くした女性の名が挙げてあった。吉岡弥生(1871-1959)。石渡こと(1874-1947。全生病院初代婦長)。三上千代(1891-1978)。井深八重(1897-1989。らいとの誤診。ナイチンゲール賞)。神谷美恵子(1914-1979。女医。精神病棟)。嶋崎紀代子(1924生。マザーテレサとも親交)。

神谷美恵子は「戦時中の東大病院精神科を支えた3人の医師の内の一人」、「戦後にGHQ文部省の折衝を一手に引き受けていた」、「美智子皇后の相談役」などの逸話でも知られている。

冒頭に掲げた言葉は、神谷美恵子「日記・書簡集」にある。「人間がいきいきと生きて行くために、生きがいほど必要なものはない、という事実である」という本人のいうとおり、神谷美恵子は生きがいを感じながら生活からほとばしった結晶としてものを書いた。今もなお、時代を越えて読者が感動するはずだ。

神谷美恵子: 「生きがい」は「葛藤」から生まれる。 (文藝別冊/KAWADE夢ムック)