独学者たち。
いずみたく。谷川健一。孔子。オードリー・タン(唐風)。田中菊雄。盛田稔。
高橋和巳。山本周五郎。江崎利一。仁木悦子。石田英一郎。山崎豊子。流政之。
清川泰次。川内康範。五味康佑。中江藤樹。中村修二。永山則夫。粟津潔。栗栖継。
半村良。ロダン。武満徹。広岡浅子。土門拳。片岡鶴太郎。幸田露伴。五十嵐健司。
ファーブル。三浦梅園。柳田国男。牧野富太郎。北大路魯山人。鳥居龍蔵。
池田英一。二宮尊徳。吉川英治。池田満寿夫。高峰秀子。安藤忠雄。南方熊楠。
ヘミングウェイ。ダ・ヴィンチ。リンカーン。エジソン。ソクラテス、、、、、。
(コンテンツあり)
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柳川範之。米本昌平。奥村宏。中沢孝夫。赤坂憲雄。ベリオーズ。シューベルト。(未)
『独学者列伝』(儀同保)。『独学という道もある』(柳川範之)。『もう一つの異端』(松野弘)
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「名言との対話」1月31日。ジャッキー・ロビンソン「一流になれ、そうすればものが言える」
ジャック・ルーズベルト・ロビンソン(Jack Roosevelt "Jackie" Robinson, 1919年1月31日 - 1972年10月24日)は、アメリカ合衆国のメジャーリーガー。
祖父は奴隷、父は農夫。6歳上の兄はベルリンオリンピック200メートルの銀メダリスト。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)に進み、軍人になる。除隊したジャッキーはニグロリーグに参加し活躍する。
そこにブランチ・リッキーという人物があらわれる。セントルイス・カージナルスの監督、ゼネラル・マネジャーを経て、61歳でブルックリン・ドジャーズ会長。野球界において人種差別をなくしたいという信念の持ち主だ。彼はジャッキーに「君に『勇気』はあるかい?」と問う。真の勇気とは「暴力を自らは振るわずに相手の間違った考えを改めさせる行動に出ることだ」。これは「壮大な実験だ」、「君は私と一緒に闘う勇気があるかい」と誘い、ジャッキーを目覚めさせる。
モントリオール・ロイヤルズでマイナーリーグ世界一に貢献し、メジャーのブルックリン・ドジャーズで活躍を始める。その年、ドジャーズはナショナル・リーグで優勝し、ジャッキーは新人王に選ばれている。ニューヨーク・ヤンキースとのワールド・シリーズで3勝4敗で惜しくも敗退する。
1947年から1956年までの10年間の成績は素晴らしいものだった。6度のリーグ優勝。通算打率3割1分1厘。ホームラン137本。734打点。197盗塁。3年目の1949年には首位打者、盗塁王、ナショナルリーグMVPに選ばれた。6年連続でオールスターに出場した。また、1949年から6年連続で3割以上の打率を残した。1955年にはワールドシリーズではニヤンキースを破り、球団史上初のワールドチャンピオンの一員となった。
引退後は、企業経営や人種差別をなくす公民権運動に積極的に参加し、全米黒人地位向上協会(NAACP)の自由基金運動の議長に就任している。
妻のレイチェルは非営利財団「ジャッキー・ロビンソン財団」を創設し、その活動はハンク・アーロンやウィリー・メイズ、サチェル・ペイジらのメジャーデビューの足がかりとなった。そしてバスケットボールやテニス、アメリカンフットボールなど他のプロスポーツにも黒人が参加する流れができた。
ロビンソンのメジャーデビュー50年目にあたる1997年4月15日、ロビンソンの背番号42が全球団共通の永久欠番となった。そしてジャッキーがメジャー公式戦に初出場した4月15日は「ジャッキー・ロビンソンデー」となった。この日は希望する選手は背番号42をつけてプレーする。松井秀喜、イチローもその一員となった。
子どもが生まれたとき、ジャッキーは 「この子が大きくなる頃には、この世界から人種差別のない世の中に私はしたいんだ」と夢を語っている。 映画「42-世界を変えた男」という映画は見ていないが、近藤隆夫『ジャッキー・ロビンソン』(汐文社x)読んで、この人の勇気ある生涯に感動した。「一流になれ、そうすればものが言える」は、スポーツに限らず、普遍的な真実を語っている。この言葉は、有色人種だけでなく、あらゆる人々に勇気を与えただろう。何を誰が言ったかではなく、誰が何を言ったかが重要なのだ。